闘莉王、恩人オシム氏の“衝撃”を回想「選手たちがあれほどピリピリしたのは見たことがない」
オシム氏を追悼「人間として大事なことをいろいろ教えてくれた偉大な人」
元日本代表監督のイビチャ・オシム氏が5月1日に80歳で逝去した。元日本代表DF田中マルクス闘莉王氏が「FOOTBALL ZONE」の取材に応じ、初選出で抜擢してくれた恩人に敬愛の念を改めて示すとともに、オシムジャパン時代の“衝撃”を振り返っている。
【注目】白熱するJリーグ、一部の試合を無料ライブ配信! 簡単登録ですぐ視聴できる「DAZN Freemium」はここから
◇ ◇ ◇
「オシムさんは自分の人生でかけがえのない恩人。夢だったA代表に初めて招集して頂いた。人間として大事なことをいろいろ教えてくれた偉大な人。残念で仕方がない」
ブラジル生まれで、現在サンパウロ州で実業家として活躍する闘莉王氏は恩師の死をこう追悼した。2003年に日本国籍を取得し、04年にアテネ五輪代表の中心メンバーとして活躍したが、A代表入りを果たしたのは06年8月。オシムジャパン初戦となったトリニダード・トバゴ戦で招集されたわずか13人のオリジナルメンバーに招集された。
そこからはオシムジャパンの中核となり、体調問題でオシム監督退任後は岡田武史監督率いるチームの2010年南アフリカ・ワールドカップ16強進出に貢献した。
浦和レッズ時代にジェフ千葉を率いていた名将と選手として対峙していた闘莉王氏。「強いチームをさらに強くするだけではない。弱いチームも強くできるのがオシムさんの手腕。オシムさんの率いるチームと対峙すると分かる。こちらとすると、一番嫌な戦術が待っている。相手がボールを持った時には、アイデア豊富で変わった攻撃を仕掛けてくる。やりにくいけれど、チェスのようで対戦は楽しかった。ジェフがどんどん強くなっていくのも楽しみでした」
千葉にカップ戦優勝というタイトルをもたらした戦術家としての恩師を称える一方で、代表監督として待っていたのは、衝撃だったという。
「コミュニケーションの部分が一番大変だった記憶があります。どんな通訳を(代表練習に)入れても、オシムさんの伝えたいことを伝えられない。2、3人ぐらい通訳がいたし、何回も通訳さんを替えた。最後はピッチから通訳を出して、最後は俺のやり方でやってやると。ジェスチャーや聞いたことのない言葉で僕たちを教えようとしたオシムさんを覚えています」
独特の言い回しから「語録」と呼ばれる名言で知られるオシム氏だが、就任当初は自らの思いをきちんと日本語に落とし込むために複数通訳体制を敷き、千田善氏に落ち着くまでは通訳変更もあったという。
「練習場で通訳が話し出す時に、代表選手があれほどピリピリした空気になるのはこれまで見たことがない。どの選手に聞いてもそう話していました。それぐらいオシムさんの言葉には力があったと思う。伝えたい思いがきちんと伝わらないとオシムさんの流儀やサッカーが変わってしまいますから。通訳をピッチから追い出すのもオシムさんらしい。それだけサッカーと選手に真剣に向き合っていた証拠だったと思います」
唯一無二の恩師から受けた衝撃は14年の月日が経っても、闘将と呼ばれた男の胸に深く刻まれているようだった。
[プロフィール]
田中マルクス闘莉王(タナカ・マルクス・トゥーリオ)/1981年4月24日、ブラジル生まれ。渋谷教育学園幕張高卒業後、2001年にJ1広島でプロデビュー。06年に浦和のリーグ初優勝、07年にACL初優勝に貢献、名古屋移籍後の10年にもJ1制覇に貢献した。04年アテネ五輪、10年南アフリカW杯出場。日本代表43試合8得点。06年JリーグMVP。現在はブラジルで実業家として活動。公式YouTubeチャンネル「闘莉王TV」も話題に。