「鹿島でプレーしたいか?」 “初期”黄金期を支えたブラジル人FW、日本行きを決断させた“神様”からのサプライズ
【あのブラジル人元Jリーガーは今?】マジーニョ(元鹿島、川崎):後編――鹿島の好環境が日本への適応を後押し
鹿島アントラーズで4年半、川崎フロンターレで半年間プレーした元ブラジル代表FWマジーニョは、Jリーグ、Jリーグカップ、天皇杯の国内3大会だけで通算155試合出場、77ゴールを記録した。そのシュートやドリブルのクオリティー、攻撃の起点となる動きやキープ力などで、クラブの栄光の軌跡に大きな役割を果たした彼が、今なお「僕の情熱」である日本への思いを語ってくれた。
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マジーニョが鹿島に加入したのは1995年、ドイツ1部の強豪バイエルンミュンヘンから母国のフラメンゴに移籍して間もない頃だった。当時のことを思い出すと、彼は今でも笑い出しそうになる。
「あれは素晴らしいサプライズだったんだ。フラメンゴの会長を介して、(元ブラジル代表MFで鹿島のレジェンドである)ジーコが連絡をくれたんだけど、ビビったのなんのって。『ジーコが? 僕に何の用だろう?』って。ジーコは僕の憧れだったけど、直接話したことさえなかったんだから。で、電話でジーコが僕に聞いた。『マジーニョ、鹿島アントラーズでプレーしたいか?』。僕の返事は『いつ行けばいい?』。もう『行きたい』と言う前に、一瞬の迷いもなく(笑)。だって、ジーコの誘いだよ? 偉大な選手であるだけじゃなく、人としても素晴らしい。鹿島に行ってからは、ジーコのことをそれまで以上に大好きになった」
鹿島に着いた時には、その溶け込みやすい環境に驚いた。
「あちらに着いた時は、日本サッカーのスピードと運動量を見て、自分がこの中でプレーできるんだろうかと思ったものだよ。でも、デビュー戦を迎える頃には、もう適応できていた。当時のメンバーだったジョルジーニョとは、バイエルンで2年間一緒だったし、レオナルドともブラジル代表で知り合っていた。モーゼルもいた。彼らの存在が大きかった。
それに、鹿島では日本人の選手もスタッフも、みんながブラジル人に慣れていたんだ。ポルトガル語まである程度話せたほどだ。そして何より、日本人選手たちも半分が現役代表や元代表というレベル。そういういいチームには、新しく入った選手が馴染むのも、すごく簡単なんだ」
藤原清美
ふじわら・きよみ/2001年にリオデジャネイロへ拠点を移し、スポーツやドキュメンタリー、紀行などの分野で取材活動。特に、サッカーではブラジル代表チームや選手の取材で世界中を飛び回り、日本とブラジル両国のテレビ・執筆などで活躍している。ワールドカップ6大会取材。著書に『セレソン 人生の勝者たち 「最強集団」から学ぶ15の言葉』(ソル・メディア)『感動!ブラジルサッカー』(講談社現代新書)。YouTubeチャンネル『Planeta Kiyomi』も運営中。