「鹿島は僕にとっての情熱」 元ブラジル代表ストライカーが黄金期で感じた勝利の追求

1995年に来日し、鹿島で4年半、川崎で半年間プレーしたマジーニョ【写真:Getty Images】
1995年に来日し、鹿島で4年半、川崎で半年間プレーしたマジーニョ【写真:Getty Images】

【あのブラジル人元Jリーガーは今?】マジーニョ(元鹿島、川崎):前編――現役後は農場経営を経てスクールコーチへ

 ドイツ1部の強豪バイエルン・ミュンヘンやブラジル代表など、世界トップレベルでの経験を生かし、ストライカーのマジーニョは1990年代後半の鹿島アントラーズ黄金期を支えた。Jリーグ2回、Jリーグカップ1回、天皇杯1回、スーパーカップで3回のタイトル獲得に貢献した彼は、今はブラジル中部の穏やかな街で、あの陽気な人柄はそのままに、少年たちのサッカーの夢をサポートしている。

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 鹿島での約4年半、輝かしい功績を残したマジーニョは、2000年に川崎フロンターレに加入。しかし、その在籍は約半年となった。

「僕が1995年半ばに鹿島に入った時は、ジョルジーニョやレオナルドといった国際的にも最高級のブラジル人と一緒にベースを築くことができた。日本人選手も代表レベルの選手が多く、すでに強いチームだったんだ。

 フロンターレは状況が違い、あの年J1に昇格したばかりで、チームを構成しつつある段階だった。そこで攻撃を引っ張っていくために加入したのに、僕自身、ふくらはぎ、次に膝と怪我が続いてね。特に、膝を痛めた時は長期間プレーができなかったから、最終的に契約を破棄することになったんだ」

 ブラジルへの帰国とともに、マジーニョは現役を引退。その後、古巣ブラガンチーノに請われて復帰したものの、3か月だけのプレーにとどめ、スパイクを脱ぐことを選んだ。

 引退後はまず、農場経営を手がけた。サンパウロ州出身のマジーニョが、ブラジル中部トカンチンス州で3つの農場を購入したのは、まだ現役時代のことだった。

「選手生活のおかげで、経済的な人生の基盤はできていた。農場の仕事をすごく気に入って、2000年から8年間続けたんだ。その後、車の代理店もやった。商才? ないない(笑)。当時は多くの銀行が車に融資していて、いい商売でね。だから、銀行が手を引き始めた時期に、僕も店をたたんで、農場の仕事に戻ったんだよ」

 その彼がピッチに戻ったのは、2016年のことだった。リオデジャネイロの4大クラブの1つであるフルミネンセが、トカンチンス州に新たなサッカースクールを開校する際、コーチとして指導することを要請されたのだ。

藤原清美

ふじわら・きよみ/2001年にリオデジャネイロへ拠点を移し、スポーツやドキュメンタリー、紀行などの分野で取材活動。特に、サッカーではブラジル代表チームや選手の取材で世界中を飛び回り、日本とブラジル両国のテレビ・執筆などで活躍している。ワールドカップ6大会取材。著書に『セレソン 人生の勝者たち 「最強集団」から学ぶ15の言葉』(ソル・メディア)『感動!ブラジルサッカー』(講談社現代新書)。YouTubeチャンネル『Planeta Kiyomi』も運営中。

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