Jリーグ創成期を支えた史上屈指のブラジル人CB 心に刻まれた日本での忘れられない”3つの瞬間”
【あのブラジル人元Jリーガーは今?】トーレス(元名古屋):後編――日本行きは「魅力的挑戦」
危機を未然に防ぐインテリジェンス、空中戦の強さ――。1995年からの名古屋グランパスでの5年間で、公式戦187試合に出場したブラジル人DFトーレスは、当時の日本サッカーでも屈指のセンターバック(CB)だった。
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サポーターはディフェンダーとしての彼のエレガントなプレーに感嘆し、CBの攻撃参加というものを彼を通して理解していったとも言われていた。
「最初に日本に行ったのは1995年、阪神淡路大震災のすぐ後で、ブラジルの友だちや家族は少し心配していた。でも、日本にはフルミネンセやヴァスコ(・ダ・ガマ)の時に、親善試合で行ったことがあって、印象がすごく良かったんだ。それで、いろいろなこときちんとオーガナイズされているあの国で、プロ化したサッカーに人々がどんなふうに取り組んでいるのかを経験するのは、魅力的な挑戦だと思えた。実際、Jリーグは本当に良く運営されていた。そして、サポーターが選手を尊重し、サッカーの当事者として、一緒に盛り上げようとしていたことに驚いたものだよ」
アーセン・ベンゲル監督(当時)たっての希望で加入した彼は、名古屋の歴史の中でもいい時代の1つを築くことに貢献した。
「あの頃はJリーグが始まってまだ3年目だったから、ベテランの選手があまりいなかった。名古屋でも守備陣は全員若手。ただ、それが良かったんだ。なぜなら、当時の外国人は僕と(ドラガン・)ストイコビッチ、(フランク・)デュリックス、(ジェラール・)パシ、みんな30歳に近かった。そして、若い日本の選手たちは、その僕らから学ぶことに意欲的だった。だから、僕らが伝えたことはポジティブに作用した。何人かは日本代表になったし、平野(孝)は20歳前後で少年みたいだったけど、ワールドカップ(W杯)を戦うまでになった。そして、チームは天皇杯で2度優勝した。(僕が在籍した期間で)Jリーグのタイトルは獲れなかったけど、少なくとも2シーズンは優勝争いも出来たんだ」
藤原清美
ふじわら・きよみ/2001年にリオデジャネイロへ拠点を移し、スポーツやドキュメンタリー、紀行などの分野で取材活動。特に、サッカーではブラジル代表チームや選手の取材で世界中を飛び回り、日本とブラジル両国のテレビ・執筆などで活躍している。ワールドカップ6大会取材。著書に『セレソン 人生の勝者たち 「最強集団」から学ぶ15の言葉』(ソル・メディア)『感動!ブラジルサッカー』(講談社現代新書)。YouTubeチャンネル『Planeta Kiyomi』も運営中。