Jリーグを彩った阿部勇樹、玉田圭司、大久保嘉人ら引退 「この人みたいにならないと10番は付けられへん」…柿谷曜一朗も憧れた背中
阿部勇樹、玉田圭司、大久保嘉人…Jリーグに歴史を刻んだ2021年の引退選手たち
Jリーグも来年で開幕30周年という節目を迎えようとしているが、阿部勇樹(浦和レッズ)、玉田圭司(V・ファーレン長崎)、大久保嘉人(セレッソ大阪)など、これまで歴史を彩ってきた偉大な選手たちが今シーズンいっぱいでの現役引退を表明している。“1つの時代の終わり”という言葉はよく耳にするが、まさしく節目の時期と言えるかもしれない。そうした選手たちに感謝と敬意を込めて、彼らのキャリアを簡単にではあるが振り返りたい。
阿部はジェフユナイテッド市原・千葉(当時はジェフユナイテッド市原)のユースから16歳でトップデビュー。後に日本代表を引きうるイビチャ・オシム監督のもとで大きく成長し、2007年から浦和レッズに加入。日本代表でも中盤の主軸として、10年の南アフリカ・ワールドカップ(W杯)では攻守の要を担うアンカーとして、ベスト16進出の立役者の1人となった。
その後、欧州に渡りレスター・シティでプレー。当時のレスターはチャンピオンシップ(イングランドの2部に相当)だったが、スベン・ゴラン・エリクソン監督の下、スタメンでも起用され、指揮官から「称賛に値するプレーヤーだ」と評された。それでも日本に残した家族を優先して浦和に復帰した阿部はキャプテンとして17年AFCチャンピオンズリーグ(ACL)の優勝トロフィーを掲げるなど、公式戦で700試合を超える偉大な出場記録を打ち立ててきた。
ホーム最終節のセレモニーで「皆さんと一緒に戦い、タイトルを取れたことは僕の宝物です」と語った阿部は明るくもストイックな選手であり、14年から浦和でプレーする西川周作も「お手本のような存在」としてキャプテンシーを称えながらも、自分自身はもちろん若い選手たちが後を継いでいくことの責任を強調していた。
玉田は千葉県の習志野高校から柏レイソルに加入し、名古屋グランパスなどを経て、最後はV・ファーレン長崎でプレー。その間、日本代表としても72キャップを踏んで、06、10年と2度のW杯に出場した。高いキックの技術もさることながら、08年の南アフリカW杯2次予選、ウズベキスタン戦での同点ゴールに象徴されるように、大事なところでゴールを決めるFWとして評価されてきた。
その阿部、玉田とともに10年のW杯に出場した大久保も川崎フロンターレでの3年連続得点王など、偉大な記録を打ち立ててきたストライカーだが、その破天荒なキャラクターが愛され、相手には憎まれることも。C大阪から大久保の姿を見てきた名古屋の柿谷曜一朗は「この人みたいにならないと、プロで10番は付けられへんのやと」と感じながら、その背中に憧れていたという。
「嘉人さんはいろんな選手に愛され、慕われた。僕は特別な思いがありますけど、彼は誰かのためにではなく、自分が点取ることしか考えてない」
そう振り返る柿谷も戦った14年のブラジルW杯で、大久保は前年のコンフェデレーションズカップをピークにチームの状態が下降線をたどるなかで、最終メンバーにサプライズ招集されると、攻撃の中心として存在感をあるプレーを見せた。歯に衣を着せない言動もさることながら、ゴールという記録に増して存在感のある選手だった。
河治良幸
かわじ・よしゆき/東京都出身。「エル・ゴラッソ」創刊に携わり、日本代表を担当。著書は「サッカーの見方が180度変わる データ進化論」(ソル・メディア)など。NHK「ミラクルボディー」の「スペイン代表 世界最強の“天才脳”」を監修。タグマのウェブマガジン「サッカーの羅針盤」を運営。国内外で取材を続けながら、プレー分析を軸にサッカーの潮流を見守る。