ブラサカ英雄、絶望乗り越え史上初の引退試合開催へ 苦しむ人々へ光を「人生どうでもいいと」

松本山雅B.F.C.で史上初の全盲監督を務めている落合啓士【写真提供:ONE CLIP】
松本山雅B.F.C.で史上初の全盲監督を務めている落合啓士【写真提供:ONE CLIP】

【落合啓士さんインタビュー】ブラインドサッカー界の英雄が同競技初の引退試合を開催へ

 昨年、ブラインドサッカー(5人制サッカー)元日本代表の落合啓士が現役引退を発表した。過去日本選手権で4度の優勝を経験し、長年日の丸を背負ってきたレジェンド。昨年8月からは松本山雅B.F.C.の監督に就任し、史上初の全盲監督として、指揮を執っている。セカンドキャリアを歩み出した落合監督だが、新型コロナウイルスが猛威を振るっていた状況下での引退だったこともあり、直接ファンに感謝を伝えることができなかった。そこで今年12月24日にブラインドサッカー選手として初めての引退試合の開催を決意。18年間の選手生活にピリオドを打つラストピッチに込められた思いとは――。次世代へつなぐ“落合スピリッツ”をFootball ZONE webのインタビューで語った。(取材・文=Football ZONE web編集部)

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 2003年1月、絶望の淵にいた落合を救ったのはブラインドサッカーだった。当時25歳。10歳の時に徐々に視力が低下する網膜色素変性症を発症し、18歳の時に失明した。サッカーが大好きだった落合は視力を失うだけではなく、夢や希望、すべてが見えなくなった。朝起きると待っているのは絶望だった。

「10歳の頃から少しずつ症状が出始めて、昨日まで見えていたことが次の日はぼやけて見えない。日々奪われていく感覚。自分のやりたいこと、好きなことが奪われていく感覚があって、その度に悔しいという気持ちがあったのは覚えている。途中からは奪われることがありすぎて、やけになった。人生どうでもいいという感じになっていた」

 落合の場合、視力と視野が欠けていくなか、視野は上から欠けていった。中学生の頃には中心視野もなくなり、下半分だけが見えている状態。そんななか、友人の顔を見ようとするとどうしても目線が上にいってしまう。それを指摘されたことがあった。

「ちょっといいな、と思っている女の子に『どこ見てしゃべっているの?』と聞かれて。僕自身、まっすぐ前を見て話しているつもりだったので、そう言われてから人と喋るのが怖くなった」

 そんな思いを吹き飛ばしてくれたのがブラインドサッカーだった。02年の年末に知人の紹介でブラインドサッカーの存在を知った。翌年1月にある練習会に参加。3月に開催される日本選手権へ選手として出場してほしいと誘われた。

「1月に体験へ行った時は正直めちゃくちゃ面白くなかった。何もできなくて楽しさゼロだった。でも、チームから『3月の大会に出たいけど人数が足りない』と言われて、『じゃあ出ます』と。僕の場合、少しずつ視力を失って夜が見えない夜盲症だった。小学校高学年からほぼ夜は見えなくて、暗闇の世界には慣れていた。だからか、ピッチの怖さはなかった。だから、日本選手権の時もへたくそでボールに触れた覚えはないなか、がむしゃらにボールを追いかけていた記憶はあって、それが当時の日本代表監督の目に留まって、日本代表の選考合宿に呼ばれた」

 ブラインドサッカーと出会って8か月、8月末には日本代表に選出された。最初は「楽しさゼロ」だったブラインドサッカーにも楽しさを見出すことができた。教えてくれたのは“日の丸”の存在だった。

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