清水の元主将、なぜ伝統工芸の世界へ? サッカー界を離れることに「迷いはなかった」
悩み始めた3年目、リスペクトする社長からのオファー
その後は、売り上げ向上のためにガムシャラに働いた。元スター選手だが、メディア露出を避けて裏方に集中した。
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「営業部は、企業へのあいさつ回りが基本ですが、戦略会議、資料作成、看板のデザインをPCですることもありました。広報用の文書も作りましたし、やることが多種多様でした」
ピッチを離れたことへの悔いはなく、充実感もあったが、3年目に入ると、自分自身に疑問を抱くようになったという。
「仕事のことを考えすぎて、エスパルスの勝敗よりも自分の仕事のほうが頭を占める。そんな状態になりました。エスパルスが大好きなのに……。そして、自分の中で『エスパルスとのフェーズ(局面)が終わったのか』という思いにもなりました。そういうタイミングで創造舎からのお話をいただきました」
創造舎は、山梨社長が立ち上げた建築設計、施工を手掛ける会社で、当時から「匠宿」(静岡市が1999年に設立)の指定管理業務運営(21年4月1日~)に向けて動き出していた。東海道五十三次で知られる宿場町の「丸子宿」で、400年以上前から受け継がれた伝統工芸が体験できる施設を広くPRするにあたり、山梨社長は杉山の力が必要と考えていた。
「浩太の義兄が創造舎の社員という縁もありましたが、私は選手時代から浩太を応援していて、闘将ぶりを見ていました。エスパルスの営業部員になってからも、熱くて真面目。そして、彼自身が伝統工芸好きなのを知っていましたし、そのガッツでサッカーを広げるように伝統工芸を広げる役割をしてほしいと思いました。何より、目がキラキラしているし、彼なら絶対にやれるという確信がありました」
山梨社長の言葉通り、杉山は現役時代から伝統工芸品に興味を抱いていた。
「28歳で家を建て、和室に合う家具を探しているなかで、『静岡って、こんなに伝統工芸品を作っているんだ』と思って、小物を買うようになりました。そして、尊敬している山梨社長からお話をいただき、『この役割は自分がやりたい。他の人にはやらせたくない。社長と一緒に働きたい』と思い、決断しました」
中学時代から続くクラブとの別れには寂しさもあったはずだが、杉山は「『ここで離れても、自分とエスパルスの縁は切れない』とも思いました。サッカー界を離れることへの迷いもありませんでした」と振り返る。