清水の元主将、なぜ伝統工芸の世界へ? サッカー界を離れることに「迷いはなかった」
「清水の誇り」と呼ばれ…持病で引退、清水の営業部に
現役時代、杉山はサポーターから「清水の誇り」と呼ばれていた。静岡市駿河区で生まれ、清水の下部組織で育ち、2003年にトップチーム入りした。3年目の05年、背番号を「31番」から「6番」に変更。クラブ設立時のスター「清水三羽ガラス」の1人、大榎克己氏(現・強化部長)の番号を託された。だが、相次ぐ負傷と持病に苦しみ、シーズンを通して活躍することはできなかった。
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各年代の日本代表に名を連ね、07年には北京五輪アジア2次予選を戦うU-22日本代表にも選出。しかし、シーズン終了後に柏への期限付き移籍となり、08年、09年とプレーした。この間に持病の本格的な治療に取り組み、症状は徐々に改善。09年は公式戦25試合に出場し、ボランチとしての存在感を示した。
清水に復帰した10年は、開幕前に負った故障のリハビリに費やすシーズンになったが、翌年から徐々にコンディションを取り戻し、13年には下部組織出身の生え抜き選手として初めて主将に就任。アフシン・ゴトビ監督の信頼を得て、リーグ戦34試合中30試合に出場した。ボランチの位置でゲームメークをしただけでなく、センターバックで出場した際は177センチ・68キロの体で、屈強なストライカーたちと体をぶつけ合った。15年以降は出場機会を減らしたが、17年でユニフォームを脱ぐまで、サポーター、選手、スタッフから愛され続けた。
「引退理由は、持病で息が続かなかったこともあります。10年はごまかしながらでしたし、『まだ、元気なうちに辞めようと』と思いました。食物アレルギーも多くあったので、試合前の栄養補給もできませんでした。そんな生活のなかでの気疲れもあり、17年シーズンの夏にはクラブに引退の意思を伝えました」
文字通りの「功労者」に、クラブ側はスタッフとしてのセカンドキャリアを提示。快諾した杉山氏はC級コーチライセンスを取得していたが、「強化部」ではなく「営業部」を希望した。
「あの当時でJリーグ、サッカーの指導者は飽和している印象でしたし、僕は監督を目指すより、まず、監督をどうやって決めているのかを知りたいと思いました。そして、最終的にクラブのお金を使う側に回りたいと思ったので、お金を集めるために、どれだけ大変な思いをしているかを知りたかったので、営業部を希望しました」
ビジネス界に飛び込むことを決めた理由は、別にもあった。祖父が「氷かき機」で昭和の大ヒット商品となった「Good Ice」の開発者で、父親も含めた親族でプラスチック加工会社「愛工業」(本社・静岡市)を営んでいるからだ。
「近くで、経営することへの覚悟を持った姿を見てきて、ビジネスへの興味は抱いてきました。それにエスパルスの名刺があれば、いろんな方に会って、ビジネスに触れることができる。一方で、サッカーばかりをしてきた自分には、何ができるのかという不安もありました。33歳で引退したので、大学の新卒者からは10年遅れているわけですから」
最初の不安はパソコンだった。キーボードに触れたこともなかったからだ。ただ、覚悟を決めた以上はやるしかない。
「18年2月から研修でエスパルス全般の仕事に関わり、4月からは鈴与の新人研修に参加し、6月まで清水港などで働きました。その後、正式にエスパルスの営業部に配属されました。まずは、提案資料を作れるようになりたいと思い、パワーポイントの習得を目指しました。大変でしたが、周りの協力もあって、数週間でなんとかなりました」