「後悔は少しもしていない」 元日本代表GK都築龍太、闘い続けた日々と32歳での引退
同い年の山岸との正GK争い、タイトル獲得の歓喜と悔しさを味わう
2002年8月3日。第1ステージ終盤の第12節で、3位G大阪は勝ち点2差で2位磐田と激突した。6連勝中のG大阪が、後半31分までに4-2とリード。しかしアディショナルタイムに追い付かれ、延長の末4-5で逆転負けし、優勝争いから脱落してしまう。
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西野朗監督は次節から松代直樹を指名。5失点とはいえ、1つ負けただけで控えに回された都築が納得できるはずもなく、ベンチ入りと監督との話し合いを拒否。この確執で都築はG大阪を離れる腹を固めた。
「日本代表だったし、偉くなったと勘違いしていたんですね。我慢していれば西野さんはいずれ使ってくれたと思う。若気の至り、あの騒動はすべて自分が悪かったんです。でも後悔は少しもしていませんよ、浦和に移籍できたわけですから」
かくして都築は03年、同い年のGK山岸範宏がいる浦和レッズへやってきた。2人は在籍中、会話すらまずしないライバル関係にあった。
初出場した第10節の横浜F・マリノス戦で完封勝ちした都築は、第1ステージ最終戦までの6試合を4勝1分1敗とした。第2ステージも出場停止を除いて14試合にフル出場。ナビスコカップ(現ルヴァンカップ)決勝では鹿島アントラーズに完勝し、クラブの初タイトル獲得に貢献する。
翌年は秋から控えに回り、第2ステージ初優勝のピッチには立てなかったが、1シーズン制に移行した05年は34試合中33試合にフル出場。再び山岸との争いに勝った。だが06年第10節の大宮アルディージャ戦で負傷してから出番がなくなり、リーグ初優勝を遂げた古巣G大阪との最終戦にも出られなかった。
悔しさにまみれたこの年だが、連覇を飾った第86回天皇杯で留飲を下げた。浦和での一番の思い出がファイナルだ。「ギド(・ブッフバルト監督)が初戦からずっと使ってくれて、決勝の相手がまたガンバじゃないですか。あの試合はいろいろ感慨深いものがあった」と述懐した。
07年は山岸が第2節を前にインフルエンザにかかると、都築がシーズン終わりまで守護神として存在感を示す。リーグ連覇こそ逃したが、日本勢としてAFCチャンピオンズリーグに初優勝し、クラブワールドカップでも3位に輝いた。
08年も先発を続け、5年ぶりに日本代表に復帰した09年も好調だったが、9月に古傷の右膝を痛めて山岸にポジションを譲る。
10年の開幕前、フォルカー・フィンケ監督はGKを全員集め、山岸を筆頭GKに指名。リーグ戦は山岸が全試合に先発し、都築より6つ下の加藤順大と11歳下の大谷幸輝が控えに回り、都築の序列は最下位に転落。浦和では出場機会がないことを悟り、6月に湘南ベルマーレへ期限付き移籍したが、このシーズンをもってユニホームを脱いだ。
河野 正
1960年生まれ、埼玉県出身。埼玉新聞運動部で日本リーグの三菱時代から浦和レッズを担当。2007年にフリーランスとなり、主に埼玉県内のサッカーを中心に取材。主な著書に『浦和レッズ赤き激闘の記憶』(河出書房新社)『山田暢久火の玉ボーイ』(ベースボール・マガジン社)『浦和レッズ不滅の名語録』(朝日新聞出版)などがある。