日本代表と五輪世代の対決は“禁断のマッチメーク” 封印のきっかけとなった苦い記憶
アマチュア時代に組まれていた日本代表と国内単独チームとの試合
6月3日に予定されていたジャマイカ戦が中止になり、日本代表の相手は東京五輪を目指すUー24日本代表に決まった。
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だがアマチュア時代に遡ると、日本代表は国内の単独チームや選抜との対戦で苦い想いをしている。実は日本代表が最後に国内の単独チームと対戦したのは1985年。読売クラブに敗れたのを機に封印されることになった。
キリンカップの前身に当たるジャパンカップは、その7年前に幕を開けた。特に第1回は、海外から複数の強豪クラブとアジアから代表チームを招聘し、過去に例を見ない華々しいトーナメントとして注目を集めた。当初日本からは代表とBチームに相当する選抜が出場していたが、第3回(1980年)からは代わりに天皇杯の優勝チームが参加することになる。それでも最初の2大会は、日本代表と天皇杯優勝チームが別のグループに分かれたので直接対決はなかったが、第5回(1982年)からは出場全チームの総当たり方式に変わった。
第6回(1983年)は5チームが参加し、天皇杯を制したヤマハ発動機(現ジュビロ磐田)が3位なのに対し日本代表は最下位。しかし直接対決は0-0で分けており、大きな問題にはならなかった。だが事件が起こったのは、キリンカップに名称が変更になった第8回(1985年)だった。
まず大会を前に日本代表メンバー発表の席に着いた森孝慈監督が、肝心の招集選手を把握できていなかった。日本代表の指揮官本人が、そこで初めて加藤久、都並敏史、松木安太郎と読売クラブ所属の3人が抜けていることに気づくのだ。今ではあり得ない失態で、主催者側が代表監督に確認もせずに3人を所属クラブでプレーさせると決めてしまっていた。
そもそも大会創設の最大の目的は、日本代表の強化だった。しかも、その日本代表はワールドカップ(W杯)予選を控えていた。森監督は早速、読売クラブのルディ・グーテンドルフ監督に連絡を取り、3人を代表チームのほうでプレーさせられるように直談判。グーテンドルフ監督も、この企画には疑問を抱いていたそうだが、結局当初決められた通りに両チームの直接対決は実現してしまう。
特に日本代表を熱愛しながら、そのチームを叩きに行かなければならない都並の心中は複雑だった。
「技術レベルを比べれば読売クラブが上なのは分かっていた。逆に技術で劣る代表はチームワークが生命線になる。個人的には、日本代表でプレーしたかった」
加部 究
かべ・きわむ/1958年生まれ。大学卒業後、スポーツ新聞社に勤めるが86年メキシコW杯を観戦するために3年で退社。その後フリーランスのスポーツライターに転身し、W杯は7回現地取材した。育成年代にも造詣が深く、多くの指導者と親交が深い。指導者、選手ら約150人にロングインタビューを実施。長男は元Jリーガーの加部未蘭。最近選手主体のボトムアップ方式で部活に取り組む堀越高校サッカー部のノンフィクション『毎日の部活が高校生活一番の宝物』(竹書房)を上梓。『日本サッカー戦記~青銅の時代から新世紀へ』『サッカー通訳戦記』『それでも「美談」になる高校サッカーの非常識』(いずれもカンゼン)、『大和魂のモダンサッカー』『サッカー移民』(ともに双葉社)、『祝祭』(小学館文庫)など著書多数。