“天才”と呼ばれた兄と同時加入 浦和で1年のみのプロ生活、「衝撃を受けた」選手は?
サテライトリーグ8試合のみの出場で戦力外も、濃密だった浦和での1年
伸郎は得点感覚に秀でた点取り屋で、小学校から大学2年まで一貫してセンターフォワードだった。中学時代は後にV川崎などで活躍した藤吉信次よりもゴールを奪い、85年の第1回アジアユース選手権(現・U-16アジア選手権)にも出場。神奈川少年選抜では国体を3度経験し、第67回全国高校選手権神奈川大会で準優勝するなど、ひとかどのFWとして知られていた。
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この第67回大会は静岡・清水商が2度目の優勝を飾り、主将の三浦文丈(現・SC相模原監督)とは筑波大でチームメートになる。
公立の進学校が、高体連加盟校数で全国3番目に多い神奈川で準優勝。現在、埼玉大学教育学部准教授でサッカー部監督の菊原は、「サッカーは番狂わせが起こりやすいから面白いのです。チームがまとまると、技術・戦術・体力などで上回る相手に勝てることを体感した。今でもあの時の経験を選手に伝えています」と指導の一助にしているそうだ。
小学校6年の春休み、読売ユースB(中学チーム)の西ドイツ遠征に帯同し、そこで目にした大自然と芝のグラウンドが忘れられず、高校生の頃から欧州暮らしに思いを馳せた。筑波大在学中にはドイツに10カ月留学し、ブレーメンのアマチュアチームに在籍した。
大学2年までは試合に出ていたが、復学後にFWからMFにポジションが変わると出番が減った。それでも在学中には、関東大学リーグと総理大臣杯全日本大学トーナメントでそれぞれ連覇を達成。4年生ではフットサル日本代表にも選出された。
94年、偶然にも兄と同じタイミングで浦和入りが決まる。しかし攻撃の中心だった志郎とは対極で、1年間の在籍期間中にトップチームには一度も帯同できず、26試合あったサテライトリーグに8試合出場したのがプロとしての戦績だった。
決して誇らしいキャリアとは言えないが、「レッズでの1年間は、これまで自分が携わってきたすべての仕事に役立っています」と感謝する。
サテライトチームは年間を通し、基本的に午前と午後の2部練習を行った。トップチームの練習場とは違い、硬い地面に雑草の生えたピッチをスパイクでひたすら走った。走りまくった末、かかとなどが激しく痛む足底筋膜炎になった。しかも同僚が8人も筋膜炎を発症したのだ。
河野 正
1960年生まれ、埼玉県出身。埼玉新聞運動部で日本リーグの三菱時代から浦和レッズを担当。2007年にフリーランスとなり、主に埼玉県内のサッカーを中心に取材。主な著書に『浦和レッズ赤き激闘の記憶』(河出書房新社)『山田暢久火の玉ボーイ』(ベースボール・マガジン社)『浦和レッズ不滅の名語録』(朝日新聞出版)などがある。