年俸180万円からのプロ生活 元Jリーガー小椋祥平は「生き残るため」に“マムシ”になった
背中を押した兄の言葉、「マムシ」の愛称を手にしたジュニーニョへの密着マーク
そんな折、修徳高校の監督のつながりでJ2の水戸ホーリーホックに練習参加する話が浮上する。そこでのパフォーマンスが認められ、なんとかオファー獲得にこぎつけた。
【注目】白熱するJリーグ、一部の試合を無料ライブ配信! 簡単登録ですぐ視聴できる「DAZN Freemium」はここから
だが、それでも小椋は悩んでいた。
「絶対に必要とされているオファーではないし、プロになった先の保証はないという話も聞かされていました。どうするべきか悩んでいた時に相談したのが兄でした。そうしたら『プロになれるチャンスがあるのはありがたいこと。それでダメだった時は、その後に大学へ行けばいい。なれるチャンスがあるなら挑戦してみたらどうだ?』と背中を押されて。自分の中で最初に火が点いた出来事です」
こうして小椋は水戸の一員としてJリーガーになった。
ただしJ2の下位を彷徨うチームは、サッカーのレベルはもとより環境もシビアだった。少年少女が思い描く華々しい世界と正反対のスタート地点は今でこそ懐かしく語れるが、そこから成り上がれる確率はいったい何パーセントあったのか。
「プロ1年目は年俸180万円だったので月15万円の生活でした。ただ寮費が2万5000円、食費も2万5000円かかり、そこから税金や選手会費が引かれて、手元に残るのはほんのわずか。選手寮もエアコンがついていない6帖一間でした。ガソリン代節約のためにチームメートと車に乗り合わせて練習グラウンドへ通っていました(苦笑)」
念願のプロデビューはレギュラー選手が病欠した左サイドバックの代役として。だがチームは勝利できず、その後の出場機会でも良いパフォーマンスを見せられない。気がつけば9月となり、単年契約の小椋は先の見えない秋を迎えていた。
転機が訪れたのは、シーズン終盤の川崎フロンターレ戦だ。その試合で小椋はJ2で異次元の得点力を誇り、そのシーズンに39試合37得点を挙げたジュニーニョへのマンマークを命じられる。マイボール時も攻撃に参加することなく、とにかく90分間ジュニーニョを追いかけ回す。“マムシ”の異名をほしいままにした試合だ。
「自分が生き残るために必死にやるしかありませんでした。ブラジル人は何をされたら嫌なのかを必死に考えて、先輩に教わったポルトガル語で挑発し続けました。ユニフォームを引っ張るなんて序の口で、審判に見えないようにスパイクを踏んだりもしました。もしVAR判定があったら、僕は何度も退場していたと思います(苦笑)。本音を言えば、そんなことやりたくなかった。でもやらないと自分の居場所がなくなってしまうので、やらないといけなかった。もしジュニーニョ選手に得点されたら、完全に自分の責任になってしまう。なんとかゴールは許さなかったけど、試合には負けてしまいました」
2-1で勝利した川崎は2位以内を確定させ、5年ぶりのJ1昇格を決めた。水戸のホームゲームながらも昇格に沸いたのは想像に難くない。その裏で“事件”は起きていた。
「フロンターレの選手やスタッフが昇格を喜んでいて、僕たちはロッカールームで肩を落としていました。そうしたらジュニーニョ選手が水戸のロッカールームを訪ねてきて『28番(当時の小椋の背番号)を呼んで』と言っているというんです。僕は試合中のラフプレーを謝ろうと思ったのですが、顔を合わせた瞬間にジュニーニョ選手が飛びかかってきて。すぐ近くにスタッフや選手がいたので大事にはならなかったけど、和解するどころか完全に恨まれてしまいました(苦笑)」
藤井雅彦
ふじい・まさひこ/1983年生まれ、神奈川県出身。日本ジャーナリスト専門学校在学中からボランティア形式でサッカー業界に携わり、卒業後にフリーランスとして活動開始。サッカー専門新聞『EL GOLAZO』創刊号から寄稿し、ドイツW杯取材を経て2006年から横浜F・マリノス担当に。12年からはウェブマガジン『ザ・ヨコハマ・エクスプレス』(https://www.targma.jp/yokohama-ex/)の責任編集として密着取材を続けている。著書に『横浜F・マリノス 変革のトリコロール秘史』、構成に『中村俊輔式 サッカー観戦術』『サッカー・J2論/松井大輔』『ゴールへの道は自分自身で切り拓くものだ/山瀬功治』(発行はすべてワニブックス)がある。