3年で引退、元浦和DFの第2の人生 部長職で奮闘「追い付くには努力しないと」
【元プロサッカー選手の転身録】渡辺敦夫(元浦和)後編:一般企業に就職して奮闘「厳しい練習を考えたら、少しのことではびくともしません」
世界屈指の人気スポーツであるサッカーでプロまでたどり着く人間はほんのひと握り。その弱肉強食の世界で誰もが羨む成功を手にする者もいれば、早々とスパイクを脱ぐ者もいる。サッカーに人生をかけ、懸命に戦い続けた彼らは引退後に何を思うのか。「Football ZONE web」では元プロサッカー選手たちに焦点を当て、その第2の人生を追った。
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今回の「転身録」はかつて浦和レッズに所属した渡辺敦夫(46歳)。市立船橋高や日大で活躍した後、1997年にJリーグ入り。初年度は出番がなかったものの、2年目にトップチームでデビューを果たした。しかし怪我にも泣かされて3シーズンで退団。そのまま現役生活を終えた。現在、一般企業で部長職に就く元Jリーガーは引退後の苦労をどう乗り越えてきたのか。後編はセカンドキャリアの歩みをお届けする。(取材・文=河野 正)
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1999年の初秋、浦和レッズにはFC東京やコンサドーレ札幌から獲得の申し出があったが、クラブ側で断りを入れていた。大分トリニータからもオファーが届いたが、移籍金がネックでご破算になった。浦和との契約が満了となった渡辺敦夫は、3年間のプロ生活に見切りをつけ、2000年から会社員として第2の人生を歩み始めた。
知人の紹介で世界的メーカー、ダイキン工業の子会社に就職。千葉・船橋市の自宅から東京都内まで電車通勤し、コピー取りと印刷補助が主な業務だった。渡辺は「それまで字もほとんど書いたことがないし、最初は何もできなくて情けなかった」と笑うと、「選手時代は会社員の友達に『1日頑張ればいいんだろ』なんて言っていましたが、1日頑張るのがどれだけ大変かを思い知りました」と21年前を回顧した。
市立船橋高校の同級生と入籍した1999年10月には、すでに長女が誕生していたとあり、石にかじりついてでもじっと奉公するしかなかった。辛抱強く同じ業務を5年間続けていたら、ちんぷんかんぷんだったパソコンのアプリケーションもすっかりお手のものとなり、なんでも使いこなせるまでに上達した。
千亜希夫人が16年、叔父の卸売業を引き継いで『自家製ハム・ソーセージ俊五郎』を立ち上げた。通販をメインにしているが、テント営業をはじめキッチンカーでイベント会場にも出張。渡辺も出店時には手伝いを買って出る。
河野 正
1960年生まれ、埼玉県出身。埼玉新聞運動部で日本リーグの三菱時代から浦和レッズを担当。2007年にフリーランスとなり、主に埼玉県内のサッカーを中心に取材。主な著書に『浦和レッズ赤き激闘の記憶』(河出書房新社)『山田暢久火の玉ボーイ』(ベースボール・マガジン社)『浦和レッズ不滅の名語録』(朝日新聞出版)などがある。