宮本恒靖に“人生を変えられた” 異才ピアニスト・反田恭平がG大阪を応援する理由
ピアニスト・反田恭平が語る少年時代の転機「あの時、宮本選手がバットマンじゃなかったら…」
“クラシック界の異才”とも称されるピアニスト、反田恭平は小学生までワールドカップを夢見る1人のサッカー少年だった。手の怪我をきっかけに音楽の道に進むことを選んだが、音楽界の第一線を走るなかでJ1ガンバ大阪のサッカーに魅了され、同クラブのサポーターになったという。宮本恒靖監督に人生を変えられたという彼の数奇な運命を辿る。(取材・文=石川 遼)
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反田はクラシックの世界で今、最も注目を浴びる存在の1人だ。ピアニストとして輝かしい実績を誇る一方で、株式会社NEXUSを立ち上げ、クラッシクの新レーベル「NOVA Record」を設立するなど、その活動は単なる演奏家の枠に収まらない
そんな音楽界の異端児が、かつて音楽以上に情熱を注いでいたものがサッカーだった。小学生までは鍵盤の前に座るよりも、グラウンドを駆け回るほうが好きだったという。
「2歳からヴァイオリン、その後にピアノを始めましたが、それよりも前、まだハイハイをしているような頃からボールを追いかけていました。親が転勤族で1歳から4歳半くらいまで名古屋に住んでいましたが、その頃からクラブチームに入ってサッカーをしていました」
その後、東京に引っ越してきてからも幼稚園、小学校のクラブチームに在籍していた。左利きの反田は攻撃的なポジションでプレーするドリブラーだったという。「『ドリブルのリズムがいい』とコーチに褒められていました。ピアノをやっていた影響なのか、タッタタッタのリズムでドリブルしているところで急にタッタタと裏拍でフェイントをかけると相手を抜けるという感覚がありました」と、音楽家らしいエピソードもある。
「ワールドカップを夢見てプレーしていた」という反田少年に転機が訪れるのは小学5年生の時だ。試合で相手選手からの激しいマークを受け、転倒した際に右手首を骨折。この怪我を機にサッカーからピアノへとシフトチェンジすることになるが、そこで浮かび上がってくるのが憧れだった元日本代表DFの存在だった。
「怪我をした次の日に接骨をしたんですが、それがとてつもない痛さでした。怪我をしたのがちょうど日韓ワールドカップの時期で、当時宮本恒靖選手が鼻を骨折してバットマン姿になっていましたよね(※1)。お医者さんと話している時に、『ワールドカップに出たいんだよね。でも手よりも(宮本監督が怪我をした)鼻のほうが痛いよ』と言われたんです。手首でさえ涙が出るほど痛かったのに、それ以上の痛みなんて僕には無理だなって(笑)。それで諦めがつき、サッカーから離れてピアノの道に進みました」
小学生の頃からピアノの腕前は相当なもので、「周りから『本気でやればいいのに』と言われていた」というなかで訪れた人生のターニングポイントだった。
(※1)宮本は2002年の日韓ワールドカップ直前の練習試合で鼻骨を骨折したため、本大会では保護のためのノーズガードを付けてプレー。その姿からバットマンと称された。