韓国に「一生勝てない」からライバルへ 日本サッカーを変えた歴史的分岐点
都並が実感した日本の成長「韓国の選手たちが肩で息をし始めた」
実際に韓国は、すでに2度のワールドカップを経験しているホン・ミョンボを筆頭に、同じく後にJリーグでも活躍するハ・ソッチュ、コ・ジョンウンら、その後も軸を成すベストメンバーを揃えていた。
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だが当日ロッカールームに集まった選手たちの前で、オフトはパフォーマンスを見せた。
「今から韓国のスタメンを言う」
メモ用紙に目を移すと「キム、パク、チェ……」と読み始めるのだが、途中で破り捨てると踏んづけてしまった。誰が出てきても関係ない。自分たちのサッカーを貫くんだ、というオフトのメッセージだった。
「やるしかないぞ!」
選手たちの士気は高まった。柱谷哲二主将の声とともに選手たちはピッチへと向かう。
それまでの対戦では序盤から韓国の猛烈なプレスに気圧され、日本は相手陣内にボールを運ぶのもままならず敗れてきた。ところが試合が始まってみると、この夜は展開がまったく違った。左サイドバック(SB)でスタメン出場した都並敏史が振り返る。
「序盤のフルプレスをかいくぐると、テンポ良くハーフウェーラインを越えていける。それを4~5回繰り返したら、あれほどフィジカルが強いと思っていた韓国の選手たちが肩で息をし始めたんです」
日本は前半終了間際にアクシデントに見舞われた。右SBの堀池巧が故障で退き、MF福田正博と交代。そこでSBにはセンターバックを務めていた勝矢寿延がスライドし、ボランチの柱谷が井原正巳とともに最終ライン中央でコンビを組むことになった。
「急造でしたが、アグレッシブに最終ラインをコントロールできたと思います。韓国にはスピードのある選手が多く、ハードな試合にはなりましたが、彼らとの駆け引きに勝てたと思うシーンもありました」(井原)
日本は堂々と真っ向勝負を挑み、互角以上の内容で失点を許さずに0-0と引き分けた。
加部 究
かべ・きわむ/1958年生まれ。大学卒業後、スポーツ新聞社に勤めるが86年メキシコW杯を観戦するために3年で退社。その後フリーランスのスポーツライターに転身し、W杯は7回現地取材した。育成年代にも造詣が深く、多くの指導者と親交が深い。指導者、選手ら約150人にロングインタビューを実施。長男は元Jリーガーの加部未蘭。最近選手主体のボトムアップ方式で部活に取り組む堀越高校サッカー部のノンフィクション『毎日の部活が高校生活一番の宝物』(竹書房)を上梓。『日本サッカー戦記~青銅の時代から新世紀へ』『サッカー通訳戦記』『それでも「美談」になる高校サッカーの非常識』(いずれもカンゼン)、『大和魂のモダンサッカー』『サッカー移民』(ともに双葉社)、『祝祭』(小学館文庫)など著書多数。