韓国に「一生勝てない」からライバルへ 日本サッカーを変えた歴史的分岐点
【識者が選ぶ日韓戦“三番勝負”】1992年8月22日:ダイナスティカップ・グループリーグ第1戦「日本 0-0 韓国」
アマチュア時代の日本にとって、韓国はライバルというより大きな壁だった。21世紀に入るとワールドカップ地域予選で競うこともなくなったが、20世紀中は五輪も合わせて韓国を倒さなければ本大会に出場できないケースが大半を占めた。韓国を退けて五輪に出場したのは1956年メルボルン大会と、銅メダルを獲得した1968年メキシコ大会のみ。ただし前者は1勝1敗で抽選により出場権を獲得し、東京で集中開催となった後者も直接対決は3-3の引き分けだった。
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歴史的にも日本サッカー界は、常に韓国へのコンプレックスを引きずっていた。特にフィジカルで圧倒されることが多く、日本代表の現場では弱点矯正に重きが置かれ「そんなことじゃ韓国に勝てないぞ」と走って戦うことを強調され続けてきたという。だがそんな流れを断ち切ったのが、1992年に初の外国人プロ監督として日本代表の指揮権を引き継いだハンス・オフトだった。
オフト就任前の日韓の対戦成績は6勝11分31敗。しかも直近は6連敗中だった。91年7月には長崎で日韓定期戦が行われ、三浦知良(現横浜FC)や日本国籍を取得したラモス瑠偉も加わり期待が高まった。しかし終わってみれば0-1とスコア以上に実力差が浮き彫りになり、韓国と戦えていない状況を痛感したラモスは「こんなんじゃ、一生勝てないよ!」と吐き捨てている。
しかしオフトは、そんな韓国に畏怖の念の抱き続ける歴史にピリオドを打った。まず韓国とは異なる日本の特徴を意識し、約束事を徹底し組織化することで十分に対抗できることを証明していく。
92年8月、オフト率いる日本代表は、北京で開催された東アジアNo.1を決めるダイナスティカップに参加する。4ヵ国が参加して行われる同大会で、前回最下位の日本はダークホースにさえ挙げられていなかった。実際翌年からプロリーグが始まるので「相当にレベルアップしている」と、当時北朝鮮代表の金鍾成(前鹿児島ユナイテッド監督)がチーム内で伝えても「日本は日本さ」と同僚に相手にされなかった。
4ヵ国が総当たりして決勝進出チームを選出する方式で、日本の初戦の相手は韓国。前夜オフトは、清雲栄純コーチと確認している。
「選手たちは十分に韓国の情報を持っている。細かく伝える必要はない」
加部 究
かべ・きわむ/1958年生まれ。大学卒業後、スポーツ新聞社に勤めるが86年メキシコW杯を観戦するために3年で退社。その後フリーランスのスポーツライターに転身し、W杯は7回現地取材した。育成年代にも造詣が深く、多くの指導者と親交が深い。指導者、選手ら約150人にロングインタビューを実施。長男は元Jリーガーの加部未蘭。最近選手主体のボトムアップ方式で部活に取り組む堀越高校サッカー部のノンフィクション『毎日の部活が高校生活一番の宝物』(竹書房)を上梓。『日本サッカー戦記~青銅の時代から新世紀へ』『サッカー通訳戦記』『それでも「美談」になる高校サッカーの非常識』(いずれもカンゼン)、『大和魂のモダンサッカー』『サッカー移民』(ともに双葉社)、『祝祭』(小学館文庫)など著書多数。