「ドイツに連れて帰る」の言葉が自信に 挫折をくぐり抜けた元Jリーガーの記憶
「滅多に人を褒めないドイツ人があなたを褒めているわよ」
鳥栖フューチャーズ、サガン鳥栖とはすべて1年契約で、翌年の更新があるのか常に不安だった。
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それでもフューチャーズでは、セルヒオ・バティスタ監督に信頼され、サガンでも高祖和弘監督が指揮した2000、01年は主力として活躍。「浦和で力不足を痛感し、謙虚な気持ちで移籍したからこそ8年間やれた。浦和で中途半端に試合に絡み、こんなレベルなら楽勝って思いで鳥栖に来ていたら、1年で終わったでしょうね」としみじみ語る。
引退後は専門学校で3年間学んで06年に柔道整復師となり、09年には整骨院を開業。選手時代に今の知識があればあと3、4年は現役を続けられたと見立てるが、区切りと考えていた10年での選手生活に未練もやり残したこともなかった。
プロでやっていくうえで、大きな自信になったエピソードがある。
94年5月、浦和はリーグ中断期間に福島県いわき市で6日間の合宿を実施。ある夕食の時、元西ドイツ代表MFミヒャエル・ルンメニゲの隣に座ると、通訳の女性が驚きながらこう言った。
「滅多に人を褒めないドイツ人が、あなたを褒めているわよ。君のような有能な選手が試合に出ないのなら、ドイツに連れて帰る、って」
これを聞いていた原博実コーチもびっくりしていたそうだ。
サガン鳥栖での一番の思い出は2000年11月19日、浦和駒場スタジアムでの浦和とのJ2最終戦だ。松田は敵地での第1戦には帯同せず、最初で最後となった古巣とのアウェー戦に先発した。
浦和のホームでは選手入場時に『ファースト・インプレッション』という、士気の高ぶる曲が流れる。
「あの曲を聴きながら出場したくて頑張っていたけど、浦和では叶わなかった。あの日は憧れの曲と大声援に身震いしました。土橋(正樹)さんのVゴールも劇的でしたね」(文中敬称略)
河野 正
1960年生まれ、埼玉県出身。埼玉新聞運動部で日本リーグの三菱時代から浦和レッズを担当。2007年にフリーランスとなり、主に埼玉県内のサッカーを中心に取材。主な著書に『浦和レッズ赤き激闘の記憶』(河出書房新社)『山田暢久火の玉ボーイ』(ベースボール・マガジン社)『浦和レッズ不滅の名語録』(朝日新聞出版)などがある。