「ドイツに連れて帰る」の言葉が自信に 挫折をくぐり抜けた元Jリーガーの記憶
同期の高卒選手も次々と契約満了、「浦和ではプロの厳しさを思い知った」
浦和で同期の高卒組は6人いたが、全員2年以内で契約満了となった。
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1年目の松田は、24試合開催されたサテライトリーグにチーム最多の20試合出場。翌年は主将を任され、トップチームの公式戦に帯同する機会が何度か巡ってきたが、そんな時に限りサテライトで退場しチャンスを手放す不運が付いて回った。
93、94年はどのスタジアムも千客万来で、高給取りと高級外車を所有する選手が次々に現れた。様々なメディアがチームと選手にスポットを当てたが、松田はそんな華やかな“Jリーグバブル”とは無縁だった。
読売育ちで日本ユース代表ともなれば、Jリーグでやれる自信はあったが、過信だったという。「浦和ではプロの厳しさを思い知った。もっとやらないといけない、体を強くして考える力を養い、気持ちも変えていかないと駄目になってしまう、って痛感しました」と振り返る。
浦和を離れた松田は縁を頼りに移籍先を探り、ともにJFLの富士通(現・川崎フロンターレ)と本田技研(Honda FC)から好感触を得たものの、加入には至らなかった。
思案に暮れるなか、高校時代の外部コーチで、現在東京都内で田口フットボールアカデミーを主宰する田口貴寛さんに鳥栖フューチャーズを紹介してもらった。Jリーグをクビになった選手をはじめ、約60人が加入テストに集結。松田はこの中の6人に残り、さらに1週間の練習を経て晴れて合格を勝ち取った。
セレクションは得意だった。例え話がいい。「自分はDFとして相手の動きや狙い、顔色を見てきたので、どんなアピールが有効なのかが分かるんですよ」と笑い、「ここを見たうえで、あそこも見ているというジェスチャーをし、わざと多く声を出すと先方も『あんなところまで見ているのか、視野が広い』ってなるわけです」。こんな戦略を駆使したのだ。
河野 正
1960年生まれ、埼玉県出身。埼玉新聞運動部で日本リーグの三菱時代から浦和レッズを担当。2007年にフリーランスとなり、主に埼玉県内のサッカーを中心に取材。主な著書に『浦和レッズ赤き激闘の記憶』(河出書房新社)『山田暢久火の玉ボーイ』(ベースボール・マガジン社)『浦和レッズ不滅の名語録』(朝日新聞出版)などがある。