被災Jリーガー、避難所を回り流した涙 震災10年、仙台MF関口が伝えたいこと【#あれから私は】
仙台MF関口訓充が振り返る2011年東日本大震災の光景「石油コンビナートが燃えて…」
2011年3月11日午後2時46分、東日本大震災が発生した。ベガルタ仙台の元日本代表MF関口訓充にとって、一生忘れられない光景が目の前に広がっていた。あれから10年――。当時も仙台に所属していた関口が「Football ZONE web」のインタビューに応じ、当時の様子を振り返った。(取材・文=Football ZONE web編集部・小杉 舞)
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「感じたことのない揺れで、立っているのがやっとだった。周りを見てもいろんなものが倒れたり、ビルとかの壁が落ちてきたり、信号が止まったり……。映画の中の世界にいるんじゃないかな、というぐらい見たことのないような光景だった。大きい道路に出た時に信号が止まって、周りの車も自分たちが進んでいいのか、止まったほうがいいのか、徐行しながら進んでいたのを今でもはっきり覚えている」
10年前、東日本大震災が発生した瞬間は今でもはっきりと覚えている。当時はホーム開幕戦の前日、午前中は練習し、自動車店にいる時だった。立っていることもままならない状況で、周囲は混乱に陥っていた。「一回、家に帰ろう」。そう決断し、関口はすぐに車を出した。
「信号が止まっていて、警察も出動していた。道路が割れて段差になったりしていて、とても普通じゃない状況だった。ただごとじゃないな、と感じた」
その日の夕方にはクラブから翌日の試合中止の連絡が入った。クラブハウスには食料や水が用意されていたが、関口は近くの小学校や公民館に避難。そして、仙台は活動休止が決まった。
「活動休止になった時は、サッカーをやっていていいのかという状況だった。やれるような精神状態でもなかった。チームが一度解散になって、僕は実家に帰ろうと思って山形空港に向かって車を走らせた」
空港までのガソリンはギリギリ。チケットも取れていない。でも、仙台の家はライフラインも止まり、引き返せない。そんななか、車のテレビから流れてくる映像にさらに衝撃を受けた。
「津波の映像や仙台空港も浸水している様子が流れてきた。小学校で避難していても、石油コンビナートが燃えているのが遠くから見えていたので、すごいことが起きているな、と思った」