“愛されキャラ”の小兵、13年のプロ生活は「奇跡」 俊輔の言葉には「涙が出そうに」
中村俊輔からかけられた言葉「最高に嬉しくて涙が出そうに」
その理由は、ユースからトップチームに昇格した時期やチーム事情によるところが大きい。
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プロ入りした2005年といえば、横浜FMがJリーグを2連覇した直後である。主力に名を連ねる選手は松田、奥大介、久保竜彦、中澤ら日本を代表する面々で、助っ人外国人も含めてリーグ屈指のレベルと層の厚さを誇った。
トレーニングについていくのがやっとだった。所属選手が30人いたら、30番目からのスタートだったことは自覚している。
「奇跡を奇跡で終わらせないために、毎日を全力で生きました。レベルの高い練習に必死になって食らいついて、練習で1本でもいいクロスからアシストできたら飛び上がるくらい嬉しかった。先輩に『アマ、ナイスボール!』と言われるのが気持ち良くて、それが次の日のモチベーションになりました。ピッチ外では実力のない自分のことをたくさんイジってくれました。そのおかげでマリノスの選手として10年間プレーできた。だって10年間でリーグ戦出場45試合ですよ?(苦笑)
こんなに在籍できたことが反対に凄いことかもしれない。退団することが決まった時に、尊敬するシュンさん(中村俊輔)が『試合数は関係ない。10年間在籍したことが凄い』と言ってくれたんです。最高に嬉しくて、涙が出そうになりました」
記録よりも記憶に残る選手――。天野にはそんな言葉がぴったり当てはまる。
2015シーズンいっぱいで横浜FMを契約満了となった天野は、J3の長野に新天地を求めた。J1の名門クラブに10年間在籍した実績はチームメートと一線を画していた。期待値は高く、重要な戦力として見込まれての加入だった。
しかし2年間の在籍中に、J2昇格を果たすことはできなかった。すると模範となる人間性や明るいキャラクターがどれだけ重宝されていても、チームトップクラスの高額年俸が足枷となってしまう。チームとして結果を出せなければ、自身の立場が危うくなることは百も承知。こうして長野に別れを告げ、新たなチーム探しが始まった。
年を越しても所属チームが決まらない状況に、焦りが募る。苦しかった当時を回想する表情に、サッカー選手への未練がほんの少しだけ見え隠れしたのは気のせいだろうか。
「J3やJFLのチームで、条件を気にしなければ所属先があったかもしれません。ただ先の将来を考えた時に、その選択は難しかった。奥さんは『やりたいことをやってほしい』と言ってくれました。でも自分の中には葛藤があって、それから現役へのこだわりと並行して“引退”の二文字をリアルに考え始めました」
藤井雅彦
ふじい・まさひこ/1983年生まれ、神奈川県出身。日本ジャーナリスト専門学校在学中からボランティア形式でサッカー業界に携わり、卒業後にフリーランスとして活動開始。サッカー専門新聞『EL GOLAZO』創刊号から寄稿し、ドイツW杯取材を経て2006年から横浜F・マリノス担当に。12年からはウェブマガジン『ザ・ヨコハマ・エクスプレス』(https://www.targma.jp/yokohama-ex/)の責任編集として密着取材を続けている。著書に『横浜F・マリノス 変革のトリコロール秘史』、構成に『中村俊輔式 サッカー観戦術』『サッカー・J2論/松井大輔』『ゴールへの道は自分自身で切り拓くものだ/山瀬功治』(発行はすべてワニブックス)がある。