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香川に用意されていたかもしれないもう1つの未来 今でもその才能に惚れ込むサー・アレックスの責任
「サー・アレックスは今でも香川に惚れ込んでいるんだ」
ドルトムントの青年監督は、9月上旬にスイスのニヨンで開かれたUEFAのコーチ会議でサー・アレックスと会ったという。そこで英国サッカー史上に燦然と輝く大監督はクロップにこう語りかけた。
「我々が香川を(マンチェスター・Uに定着できるように)導けなかったのは残念だ。彼の1年目に我々は満足していたんだ。
通常、2年目には次のステップを踏んで行くのだが、それが彼にはできなかった。けれども、それは我々にも責任がある」
クロップはこのファーガソン元監督の言葉を記者に告げると、「サー・アレックスは今でも香川に惚れ込んでいるんだ」と付け加えた。
筆者は、香川が夢半ばの形でマンチェスター・Uを後にした理由はいくつかあるが、最も大きな理由をひとつだけ上げろといわれたら、それは「ファーガソン勇退」と断言する。
2012年5月12日、マンチェスター・Cと勝ち点が並んだまま迎えた2011-12年シーズンのプレミア最終節の前日、香川に惚れ込んだ大監督は自らドイツに飛び、誰が見ても日本代表MFが文句なしの最高殊勲選手だったバイエルン・ミュンヘンとのドイツ杯決勝を観戦した。
そして試合後、直接香川と話し、マンチェスター・Uへ引き抜いた。
この時、当時のRマドリードの監督だったジョゼ・モウリーニョも香川獲得に動いたが、「エジルの控えと正直に伝えた。香川は毎週試合に出るためにマンチェスター・Uに移籍した」と証言しているように、日本代表MFはレギュラーを確約されたからこそ、マンチェスターに移住したと考えていいだろう。
きっとファーガソン監督は、ドルトムントの得点源となった香川とレバンドフスキのコンビネーションを、マンチェスター・Uでは香川、ルーニーのふたりで、さらにダイナミックに復元しようと考えていたのだ。
しかしこの、日本人サッカー・ファンにとっては素晴らしい発想も、希代のオランダ人フィニッシャー、ロビン・ファンペルシーの加入でルーニーをトップ下で起用したため崩れてしまった。
アーセナルから思わぬチームメイトが加わって左サイドに追いやられてしまったが、1年目の香川が、ファーガソン監督に注意深く試されたことは間違いない。大胆な若手起用で有名なスコットランド人闘将だったが、実は新人選手の起用に関しては非常に慎重な一面を持っていた。
とくにトレブルを達成し、欧州サッカー界におけるマンチェスター・Uの確固たる地位を築き上げた1999年以降は、ビッグクラブの重圧から新加入の若手を守った。それは、鳴りもの入りで入団したロナウドやルーニーの初年度の起用を見ても明らかである。
奇しくもロナウド、ルーニー揃ってマンチェスター・Uデビュー・シーズンのリーグ戦出場は29試合。全力プレーを強いられるプレミアの困難さ、そしてマンチェスター・Uに集まる英メディアの注目度の高さと世界のメディアの関心の大きさ、そして強豪チームを倒して勢いに乗ろうと、打倒マンチェスター・Uをむき出しにする相手選手のラフプレーからも、初年度は9試合ずつ休ませて、ポルトガルとイングランドのワンダーボーイを守った。
そして肉体的なこと、技術的なことは無論、ピッチ上では常に全力を尽くすというマンチェスター・U魂を注入しながら、ビッグクラブを背負うレギュラーの精神面を成長させ、ロナウドとルーニーを看板選手に育て上げた。
それは香川に対しても同様だったと思う。10月の欧州CL戦で左ひざのじん帯を痛めた時も、全治6週間の診断だったにも関わらず、香川の復帰には2か月以上を擁したように、完全な治癒を待ち、決して無理使いはしなかった。
しかしその一方で、アウェイで行われたRマドリードとの欧州CLトーナメント・ステージ(ベスト16)第1レグでは敢然と香川を先発させて、闘将の期待の大きさを充分感じさせる起用も行った。
結果的には、デビュー・シーズンで激しいライバル関係が絡み、フィジカルと気持ちの強さが不可欠であるプレミアの強豪対決で起用されることはなかった。しかし、欧州戦ならRマドリードとの超Aクラスの試合でも通用するという評価だったと思う。
また、本人も格下とはっきり認識していたが、ノリッジ戦でハットトリックを達成。英メディアは、やはりファーガソン監督が直々に視察までして連れて来た逸材だと、高いスキルで1試合3ゴールを決めた香川の能力を再認識した。
ところがファーガソン監督は突然引退してしまった。香川に関して、「2年目はさらに良くなる」と確信に満ちた予言を残して、26年に渡ったマンチェスター・U監督生活に終止符を打った。
その後は、今回のドルトムントへの出戻り移籍まで、香川には不運の連続だった。