元日本代表MF名波浩が語る“司令塔論” 「僕自身、10番っぽいと思ったことがない」
転機となったB代表の1996年デンマーク遠征
かつて司令塔と呼ばれる選手は10番を背負い、トップ下でプレーすることが多かった。「僕自身、あまり10番っぽいと思ったことがなかった」という名波氏も、小学生時代から思い入れのある「7番」を付け、中盤の攻撃的なポジションでプレーしていたが、プロ入り後に一つの転機が訪れる。
「1996年のデンマーク遠征に、当時B代表という24歳以下日本代表で行ったんです。僕は23歳の時だったんですが、そこで3試合くらいボランチで出て。後にゾノ(前園真聖)が代表に入ってきて完全にボランチになって、今度はヒデ(中田英寿)が入ってきて、そのままボランチって感じでしたね」
名波氏自身、1990年代に入ってからの戦術面での変化、そして司令塔のプレーエリアが下がりつつあることは感じていた。
「中盤でのハイプレッシャーとマンマーク。1986年と90年のW杯でも、マラドーナは特に西ドイツ(当時)との決勝ではマンマークに苦労していました。中盤のエリアでハードなマーク、人数をかけられる守備をされがちな司令塔をトップ下から一つ下げることによって、フリーエリアが少し広がり、広範囲に、広角に配球できるという流れはあったと思います」
そうした時代の流れのなかで、名波氏は中盤の2列目とボランチの両ポジションでプレーをしていくことになる。それぞれ異なる環境下で、「司令塔」として求められる役割を全うするために細かい部分まで追求していった。
「10メートル景色が変わるだけで、相当違いがあるなと。具体的に何かと言ったら、やはり2列目のほうがプレッシャーを受けるぶん、前への選択が難しくなる。ということは、どのアングルでボールを受けても前方にパスを出したい時、受け手との間に阿吽の呼吸がないと、なかなかボールを前に運べなくなってしまう。(相手を)背負った状況でどうプレーするのかというのを、とことん追求していた2列目の時に対して、一つ下がった2.5列目のようなボランチの時は、もう少しハーフターンできる時間があり、視野を広く確保できるので、そのなかでどこにボールを運んだら相手が一番嫌がるかという部分を徹底していた感じですね」