「漢の中の漢」と呼ばれたワケ 李漢宰、キャリア20年に詰まった情熱と感謝の思い

MF李漢宰(左)とMF森﨑和幸(右)は、2001年から9シーズンにわたってプレーした【写真:ⒸSANFRECCE HIROSHIMA】
MF李漢宰(左)とMF森﨑和幸(右)は、2001年から9シーズンにわたってプレーした【写真:ⒸSANFRECCE HIROSHIMA】

現役時代の数少ない心残りは、広島のホームスタジアムに選手として戻れなかったこと

 20年間の長いキャリアにおいて、サンフレッチェ広島時代は起承転結で言うなら「起」「承」の二つだろうか。それだけ、李漢宰にとってこの9年間は大きな意味を持ち、当時は「このクラブで生涯プレーする」との思いを持っていた。

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「サンフレッチェ広島は、僕が高校を卒業して初めてプレーしたチームであり、プロ選手としての基礎を築けた場所です。特に、(広島の総監督・顧問を務めた)今西和男さんなくして、僕がプロの門を叩くことはなかったと思います。『サッカー人である前に社会人たれ』と、話し方一つ含めてたくさんのことを学ばせていただいたし、当時の先輩であり、キャプテンをしていた上村(健一)さんにもお世話になりました」

 だからこそ、2009年シーズン限りでサンフレッチェ広島を契約満了となった際には、とてつもない寂しさに襲われたという。サポーターとの“約束”を現役引退まで果たせなかったことは、数少ない「心残り」だと明かす。

「もう一度サンフレッチェ広島の選手としてか、あるいは違うチームの選手かもしれないけど、当時のビッグアーチ(現エディオンスタジアム広島)に必ず戻ってくるとサポーターの前で約束したのを覚えています。その約束を最後まで守れなかったのは非常に心残りです。並々ならぬ気持ちで広島を出ただけに、コンサドーレ札幌、FC岐阜では大怪我もあって、まったくクラブに貢献できなかったのは申し訳ない気持ちでした」

 2010年に移籍したコンサドーレ札幌では、開幕前に左膝を負傷。ドクターから軟骨が剥がれているという診断を受けたにもかかわらず、無理をして1カ月間プレーを続けた結果、さらに状態が悪化し、完治しないままわずか2試合の出場に終わった。2011年から3年間在籍したFC岐阜でも、2シーズンは怪我との戦いに苦しんだ。走るどころかまともに歩けず、選手としての価値が年々下がっていくことに、焦りを隠せなかったという。李漢宰は大好きなサッカーをできなかった時期を、これまで何度も「人間の命で例えるなら、死んだような状態」と表現している。そこから、トライアウトを経てFC町田ゼルビアに加入することになるが、「自分はできるんだと証明できるレベルに持っていくまでが、非常に苦しかったです」と話す。

「FC岐阜での最後の3カ月間は、怪我でまったくプレーしていませんでした。満身創痍で、テーピングをぐるぐる巻きにした状態で、FC町田ゼルビアのトライアウトに行って。当時、あの足の状態でよくサッカーをやっていたなと思います(笑)。正直、今でも振り返るとつらいですね。そのなかで、15分しかプレーできなかったにもかかわらず、声をかけてくださった当時の丸山(竜平)強化部長、就任が決まっていた相馬(直樹)監督を含めた、クラブ関係者の皆様には感謝しかありません。サッカーの大切さを、プロサッカー選手がどれだけ素晴らしいものかを再認識できたのが大きかった。あの苦しさ以上の苦しさは今後ないな、と。自分のすべてを懸けて、J2昇格に向けて頑張っていくんだと決心したのを覚えています」

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