「浦和は昔も今も偉大なチーム」 英雄ブッフバルトが復権を切望「条件はすべて備えている」
【ブッフバルト氏インタビュー】監督として帰還、2006年に悲願のJリーグ初優勝へ導く
浦和駒場スタジアムで白馬に乗ってサポーターに別れを告げてから約6年後の2004年、ギド・ブッフバルト氏は浦和に戻ってきた。その前年にナビスコカップで優勝し、初タイトルを獲得したチームのさらなる強化のために、クラブ首脳陣はブッフバルト氏に監督就任を要請。浦和を常勝軍団に押し上げるという同氏の新たな挑戦が始まった。
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監督を引き受ける以上は、当然結果が求められる。浦和のような国内屈指の観客動員数を誇る人気クラブであれば、指揮官にはそれに見合った結果を出すことがノルマとして課される。浦和の首脳陣も監督就任の際にタイトル獲得について言及した。要求の内容はクリアだが、その内容はハードだった。しかし、前年までハンス・オフト氏が率いていたチームを実際に見た時、ブッフバルト氏はタイトル獲得の可能性を十分に感じたという。
「当時のチームを見て、自分が引き受けた仕事は達成可能なミッションだと思った。若くて才能豊かな選手がたくさんいて、良いサッカーをするための土台がしっかりと整備されていたからね。私はそこからさらに分析を進めて、チームの雰囲気や選手個々の特長、改善点などを把握してチーム作りへと着手していった」
チーム作りの過程では、より攻撃的なサッカーを志向した。それまでの浦和は快足FWエメルソンの得点力を頼りにしたカウンター中心のチームであり、より多彩で強力な攻撃力の獲得こそがチームの成長とタイトル獲得には不可欠だったからだ。
「私は、攻撃的なサッカーを目指していた。そのほうが相手にとってより脅威となるからだ。エメルソンは、恐らく当時の日本では最高のフォワードだった。ブラジル代表でもプレーできたかもしれない。しかし彼に頼るだけのサッカーは相手に読まれやすいし、すぐに対応されてしまう。だから私は戦術面でいくつかのバリエーションを採り入れた。より攻撃的なサッカーをするために、よりボールポゼッションの割合を増やすためにだ」
翌2005年夏にエメルソンがアル・サッド(カタール)に移籍したが、その後にブッフバルト氏曰く「選手としても人としても素晴らしかった」というブラジル人MFロブソン・ポンテがレバークーゼン(ドイツ)から加入したことで、浦和の攻撃はより変幻自在なものへと変貌していく。2006年シーズン開幕前には、元ブラジル代表FWワシントンを東京ヴェルディから獲得して、高さという新たな武器も得た。