18歳で死の危機に直面…指定難病から“奇跡の復活” 海外日本人MFが不屈の魂で追う幼き日の夢
サイドハーフ転向、視神経脊髄炎で緊急入院……激動だった高校時代
いくつか練習参加したなかで、一番熱心に勧誘してくれた京都外大西高へ進学した伊藤は、エスパニョールでの悔しさを胸に、「いつか、あそこに追いつけるようにならないといけない」と練習に明け暮れた。たとえ、どんなに対戦相手が上手くても、「スペインの衝撃のほうがえぐかった」という思いが体を突き動かす原動力となった。
一つの転機となったのが、FWからサイドハーフへの転向だ。身長170センチとサイズがそこまでなかったこと、ドリブルが得意だったことがコンバート理由だったが、これがのちに伊藤の武器となる1対1を磨くきっかけとなった。
ただ、大好きだった3年生のためにもメンバーに入って結果を残したいと思っていた高校2年次のインターハイ予選では、直前に肉離れを起こして出場できず。「先輩のために何もできずに終わった」不甲斐なさは、高校時代で一番悔しかった出来事として今も伊藤の心に刻まれている。
そしてインターハイ予選敗退で新チームが立ち上がり、1週間のオフを経て、“ランニング地獄”の強化練習が始まる当日、伊藤の体を異変が襲った。朝起きると、足が「氷水に浸かったような感覚」になり、脱力感で上手く歩けない。もともと貧血持ちだったが、症状が異なるため、当時看護学校に通っていた母親にすぐに伝えた。
「いつもは朝起きたあとにトイレへ行って、シャワーをするのが自分のルーティンでした。少し寝ぼけながらおしっこをしようとしたけど出ない。パニックになって、起きてきた母親に伝えたところ、以前に腰の分離症(疲労骨折の一種)になったところから、神経を圧迫しているのかもしれないという話になって、整形外科に行きました。レントゲンを撮ると、新たに折れている箇所が見つかって、それが原因か、と。その日は、泌尿器科からカテーテルを処方してもらって帰りました」
しかし、帰宅しても体調は戻らず、どんどん悪化していった。下を向くと背中に激痛が走り、力が入らなくて物も握れない。手が震えて文字も書けない。最終的には寝たきりの状態になってしまう。すぐに母親が知人の医師に相談し、紹介状を書いてもらって京都で一番大きな京大病院に駆け込んだ。
「整形外科に行ったのが木曜日。でも、翌日にも全然治らなくて。手足が麻痺して、手すりがなかったらいつ倒れてもおかしくない状態。もう生まれたての小鹿みたいでした。文字がちゃんと読めなかったり、何を言われているのかも分からなくなったり……。母親がツテをたどってなんとか紹介状を出してもらって、週末を挟んで月曜日に病院に行きました。受付で症状を言った瞬間、『すぐに診察室に入ってください』と病院の人に緊張感が走って。MRI、CT検査、血液検査、レントゲンを1時間くらいかけてしました」