18歳で死の危機に直面…指定難病から“奇跡の復活” 海外日本人MFが不屈の魂で追う幼き日の夢
中学時代はマンUのスクール留学、エスパニョールのカンテラ練習参加を経験
マンチェスターに渡っての1カ月半はサッカー漬けだった。小学6年生から高校3年生まで年代別でグループが分けられ、「起床→朝食→練習→昼食→英語レッスン→練習→夕食」のサイクルが続いた。日本人は伊藤を含めておよそ8人だったが、海外出身の選手とも身長差はあまりなく、「普通にできる」というのが率直な感想だったと振り返る。
「今考えれば、下部組織じゃなくてただのスクールだと気づくんですけど、当時はまったく理解していなくて(苦笑)。スピードも全然通用するし、テクニックに関しても周囲よりはトラップやパスのミスも少なかった。毎日、練習後に発表される“今日のMVP”に選ばれたこともあったし、自分の好きなチームでこんなにできるんだったら、プロになれるんじゃないかと思っていました」
大きな希望を抱いて帰国した伊藤に、次のチャンスが訪れたのは1年後。中学3年生の春、マンチェスター・ユナイテッドのスクール参加で面倒を見てくれたコーディネーターから、「スペインで練習参加できるけど来てみる?」と尋ねられ、「行きます!」と二つ返事で再び海を渡った。ただ大きく違ったのは、今回はエスパニョール(当時スペイン1部/現2部)の下部組織への参加だったということ。あまりのレベルの差に、愕然とせざるを得なかったという。
「カンテラ生とはまったく違う練習着を渡されたので、感覚としては練習生。日本人選手は全部で3人いました。違和感なくチームに入って、練習にも、週末の試合にも出ていましたけど、『俺ってこんなにサッカーの才能がないんだ』と痛感しました。トップ下のレナトって子が年代別のスペイン代表で、『マチュピチュと呼んでよ』と言っていた子が年代別のペルー代表。速い、強い、上手い、デカい、賢い……。本当に同い年かよって(苦笑)。マンチェスター・ユナイテッドのスクールで少しできて、勘違いしたままエスパニョールのカンテラの話が来たので、『今、俺はそのレベルにいるんだ』と天狗になって伸びた鼻をスペインでポキンと折られました。初練習でもう帰りたかったし、調子に乗ったらいけないなと思いましたね」
1カ月のスペイン滞在から戻った伊藤は、中学最後の大会で「ベスト16」を目標に設定。エスパニョール行きの前まで、練習試合を含めて一度も勝ったことがない弱小チームだったが、強い決意とともに“初勝利”を含めて4勝を挙げ、見事に16強の成績を収めた。
「当時はめちゃくちゃ弱くて、絶対に勝ちたいと話していましたけど、『お前ら勝ったことないじゃん』と笑われるようなレベルでした。でも、自分の中で区切りの目標にしたベスト16を達成できたのは良い思い出です。頑張れば報われるじゃないけど、目指すことに意味があると気づかせてもらいました」