「今でも忘れられない」 元日本代表DFが現役時代を回顧、「鳥肌が立った」瞬間とは?
「あの威圧感、あの重圧感は浦和でしか体験できない」
手本にしたのが薩川了洋と渡辺毅の両DFだ。「薩川さんの1対1の強さは本当に凄かったし、渡辺さんの空中戦の強さも尋常ではなかった」と振り返り、2人のプレーを参考にプレーの幅を広げたそうだ。
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柏に4年間所属した後、06年にアルビレックス新潟へ移籍したが、2月の練習中に右膝靭帯損傷で全治2カ月。復帰した5月には右膝前十字靭帯断裂で、この年の公式戦には1試合も出場できなかった。
だが、新潟時代に暗い思い出は一切なく、むしろ「キャリアの中では最も試合出場数が多く、タイトルとは無縁だったけど、サッカーをやっているという充実感や楽しさを感じながらプレーしていました」と懐かしんだ。
リーグ戦は2年目の07年から順に22、30、33、34試合出場。07年は6位とJ1でのチーム最高成績を残し、09年の天皇杯ではチーム初のベスト8を経験した。07年から3シーズン、千代反田充と組んだセンターバックは堅牢で、09年のリーグ戦31失点は、優勝した鹿島アントラーズの30に次いで少ない数字だった。
念願のビッグクラブからオファーが届いたのは10年初秋で、翌年浦和へ移籍する。柱谷幸一ゼネラルマネジャーは、「センターバックに不可欠な強さと高さを兼ね備えている」と高く評価。“強さと高さ”、永田は柏で薩川と渡辺から吸収したものを自分の武器にしていた。
浦和での1年目は主にスピラノビッチと4バックの中央を形成し、リーグ戦34試合に唯一フル出場。新潟も大勢の観客を動員したが、やはり浦和での強烈な印象はあの熱狂的なサポーターだった。
北海道コンサドーレ札幌のミハイロ・ペトロビッチ監督が浦和で指揮を執っていた当時、永田を“フランツ”と呼んでいた。
1970年代の西ドイツのスーパースター、フランツ・ベッケンバウアーは最後尾からドリブルで持ち上がって好機を演出した。永田も同じスタイルだったことから“フランツ”と命名。そんな沈着冷静な永田でも、「5万人の埼玉スタジアムのピッチに入る時に鳥肌が立ったことや、その中でプレーできる喜びは今でも忘れられない」と興奮気味に話すと、「あの威圧感、あの重圧感は浦和でしか体験できない。この人たちのために勝ちたいという思いが強かった」とサポーターの熱量に敬服した浦和での6年間を回想する。
河野 正
1960年生まれ、埼玉県出身。埼玉新聞運動部で日本リーグの三菱時代から浦和レッズを担当。2007年にフリーランスとなり、主に埼玉県内のサッカーを中心に取材。主な著書に『浦和レッズ赤き激闘の記憶』(河出書房新社)『山田暢久火の玉ボーイ』(ベースボール・マガジン社)『浦和レッズ不滅の名語録』(朝日新聞出版)などがある。