マラドーナは“ぼろきれ”のようになって闘い続けた 天才の心に生き続けた原点のチーム
【識者コラム】マラドーナを支え続けた「ロス・セボジータス」での日々
「マラドーナは史上最高の選手であり、将来もそうであり続けると私は確信する」(フランシスコ・コルネーホ)
フランシスコ・コルネーホは、ディエゴ・マラドーナの最初のコーチだった。8歳のマラドーナと出会い、アルヘンティノス・ジュニオルスの少年チームで6年間を過ごした。コルネーホは「自分は必要な時にそばにいただけだ」と話している。マラドーナが「最高」である理由については、「ぼろきれのようになりながら、喝采を通り越して涙を流させる感動を観衆に与えた」と語る。
マラドーナが凄いのは、技術的に最高だったからではない。いつも闘っていた。だから、いつもコルネーホの言うように「ぼろきれ」だった。
「好ましくないこと、悪と思えることには徹底して反抗する。それは俺の性分で、そのために多くの問題も抱え込んだけど後悔はしていない。俺は俺、皆が知っていることさ」(マラドーナ)
ボカ・ジュニオルスでは、選手を襲撃しようとした狂信的なサポーターから仲間たちを守った。バルセロナではパウル・ブライトナーの引退試合への参加を許さない会長に抗議して、テレサ・エレーラ杯を床に落として破壊した。1990年イタリア・ワールドカップ、イタリアとの準決勝で会場となったナポリの人々に「イタリア人としてアズーリの応援を」という呼びかけに対し、「さんざん差別し、無視してきた連中の言うことか」と噛みついた。いつも何かと闘っていた。
「今でも俺は、心の底からロス・セボジータスの一員だ」
マラドーナはそう言っていた。「小さいタマネギ」のチーム名は、エビータ杯に参加した時にコルネーホが命名したものだ。「太陽」「タチート村」「明星」といったチームの中で、「アルヘンティノス」の名を出すのをためらったからだ。勝っても負けても目立ちすぎる。
アルゼンチンのクラブはトップの1軍から9軍までで編成されていて、ロス・セボジータスはそれ以下の年齢のチームにあたる。
「セボジータスは皆にとって特別なチームだった」(ルイス・チャマー)
マラドーナと同じ年に加わったルイス・チャマーは中流階級の子供だった。
「ディエゴは貧民街に住んでいた。いろんな階層の子供たちがいて、家が金持ちの子も貧しい子もいた。でも、そんなことで仲間割れしたことなんかなかったよ。よく言われているような貧乏なチームなんかじゃなかった。そう、質素なチームと言うべきだ。粗末だったかもしれないが、ちゃんと食事もしていたし、快活で、親たちも威厳があったよ」
西部謙司
にしべ・けんじ/1962年生まれ、東京都出身。サッカー専門誌の編集記者を経て、2002年からフリーランスとして活動。1995年から98年までパリに在住し、欧州サッカーを中心に取材した。戦術分析に定評があり、『サッカー日本代表戦術アナライズ』(カンゼン)、『戦術リストランテ』(ソル・メディア)など著書多数。またJリーグでは長年ジェフユナイテッド千葉を追っており、ウェブマガジン『犬の生活SUPER』(https://www.targma.jp/nishibemag/)を配信している。