元日本代表DFが引退直後に“シャッター製造” 第2の人生を工場勤務で歩み始めた理由
【元プロサッカー選手の転身録】永田充(元浦和ほか):父の言葉に一念発起、工場勤務を決断
静岡学園が第98回全国高校サッカー選手権で決勝進出を決めた今年1月11日、埼玉スタジアムから永田充に電話をかけ、決勝には母校の応援に駆け付けるのか尋ねてみた。
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「実は来週から栃木の練習に参加するので行けないんですよ」
2019年5月から所属していた関東サッカーリーグ1部、東京ユナイテッドFCとの契約が満了。移籍先を模索するなか、J2栃木SCの“入団テスト”を兼ねた練習に1週間挑戦したが、年齢と年俸がネックとなって合意には至らなかった。
男盛りの37歳。まだやれる自信はあったが、年齢のことを指摘されるようなら一線を退き、区切りを付ける覚悟を決めていたそうだ。3歳、5歳、9歳の子供と妻を養うためには浪々の身であるわけにもいかず、わがままを押し通して現役を続行するのも気が引けた。
「自分では気づかないけど、周りから見たら反応が遅いとか、動きが鈍くなっていると判断されたのでしょうね。必要とされていない以上、いつまでも現役にこだわらず引退することを決めました」
サッカー界から身を引く決断をしたまではいいが、第2の人生については真剣に考えたことがなく、頭の中が真っ白になったという。
静岡学園で全国高校選手権に2度出場した永田は、主将を務めた第80回大会で16強入り。02年にJ1柏レイソルへ加入し、03年のワールドユース選手権(現U-20ワールドカップ)では日本の8強進出に貢献した。この年はジーコ監督率いる日本代表に初招集され、Jリーグ優秀新人賞にも選ばれた。
06年にアルビレックス新潟へ移籍し、11年からは浦和レッズで6年間プレー。東京ヴェルディで初のJ2を戦った後、東京ユナイテッドFCで18年に及ぶプロのキャリアに終止符を打った。リーグ戦はJ1で272試合、J2で10試合の通算282試合に出場。日本代表としては11年のアジアカップ優勝を経験した。
Jリーガーのセカンドキャリアというと、解説者をはじめチームやスクールの指導者などサッカー関連の仕事が圧倒的に多い。しかし永田は「引退したらサッカーから少し離れたかった」と、万人とは一線を画した設計図を描いていた。
静岡市内で製造業コンサルティング会社を営む父・公雄さんに引退を伝えると、後継者になることも考慮し、工場で経験を積むことを勧められた。この提言に一念発起する。
河野 正
1960年生まれ、埼玉県出身。埼玉新聞運動部で日本リーグの三菱時代から浦和レッズを担当。2007年にフリーランスとなり、主に埼玉県内のサッカーを中心に取材。主な著書に『浦和レッズ赤き激闘の記憶』(河出書房新社)『山田暢久火の玉ボーイ』(ベースボール・マガジン社)『浦和レッズ不滅の名語録』(朝日新聞出版)などがある。