“元得点王”の大物助っ人が語るJリーグ 「日本最高のストライカー」と絶賛した選手は?
【元J得点王・オルデネビッツ氏インタビュー|第1回】盟友リトバルスキー氏の熱心な説得で来日を決意
今から26年前の1994年、ジェフユナイテッド市原(当時)で強烈な左足のシュートを武器に得点を量産し、Jリーグ得点王に輝いた男がいた。
フランク・オルデネビッツ。「オッツェ」の愛称で親しまれ、アルシンド(鹿島アントラーズ)やラモン・ディアス(横浜マリノス)、トニーニョ(清水エスパルス)ら並居る強力な外国人選手を押しのけて、得点王のタイトルを獲得したドイツ人ストライカーだ。現在は現役時代に奥寺康彦氏らとともにプレーしたブレーメンでスカウトを務めている。創成期のJリーグを助っ人として過ごし、今もスカウトとしてアンダー世代を中心に日本サッカーの動向を追い続けている同氏に、来日当時の思い出と現在の日本サッカーについて語ってもらった。
オルデネビッツ氏が市原に加入したのは、Jリーグ開幕から2カ月ほどが経った1993年7月。プロリーグが発足したばかりであることに加えて、代表チームがワールドカップ(W杯)に出場したことがなかった当時の日本は、「サッカー不毛の地」とも言える国だった。ブレーメンでブンデスリーガ優勝を経験し、毎年コンスタントに結果を残してきた選手が新天地として選ぶような場所ではなかったはずだが、ケルン時代のチームメートで先に市原でプレーしていたピエール・リトバルスキー氏の熱心な説得によって、来日を決意したという。
「リティとはケルンで一緒だったし、同じ部屋で生活していたこともある。それである時、彼から『日本に来てみないか』と誘われたんだ。リティは日本についてたくさん話してくれた。素晴らしい親友でもあったし、それで単純に『分かった、日本に行くよ』と返事をしたんだ。ただし、自分がジェフでどういう役割を期待されているのかといったことは、全く分からなかったけどね」
実は市原に移籍する7年前の1986年に、オルデネビッツ氏はキリンカップに参加するブレーメンの一員として来日している。しかし、その時の滞在期間はわずか10日前後であり、さらにホテルと練習場や試合会場の往復がほとんどだったこともあって、日本に関する予備知識は実質ゼロ。来日当初は日常生活で苦労することも多かったという。
「日本に来る前に、リティから日本で使うサッカー用語が書かれた4ページぐらいの量の単語集をもらった。それを飛行機の中で見て覚えながら日本に来たんだけど、日常生活で使う言葉は全然知らなかったから、最初は買い物に行っても砂糖と塩の区別がつかなくて困ったよ。日本食はほとんど試してみたし気に入ったけど、納豆だけは難しかった。あと、ドイツ風のパンが手に入らないのも問題だった。あちこち探し回って、舞浜市内にドイツの製法でパンを作っている店をようやく一軒見つけたなんてこともあったね」