メッシのバルサ退団騒動と47年前のクライフ 天才2人に共通、“心を失った契約”の空虚さ
【識者コラム】ユース時代を過ごしたクラブと喧嘩別れしたクライフ、アヤックスは7年契約が仇に…
「なるべく早い20日便でミュンヘンへ来られたし。エッソ・モーター・ホテルへ投宿のこと。従わぬ場合は規律違反により罰則の対象とする」
空港に着くなり、当時のアヤックス会長ファン・プラークはヨハン・クライフに電報を打っている。電報というところに時代を感じてしまうが、1973年の話なのだ。チャンピオンズカップ(現・UEFAチャンピオンズリーグ)準々決勝のバイエルン・ミュンヘン戦の第2戦、クライフは参加を拒否していた。膝に水が溜まっていたからだ。
アヤックスのドクターは出場許可を出していたが、クライフが他の医師に相談したところ、選手生命も危ういという診断を得ていた。結局、クライフはミュンヘンに行かず、アヤックスは1-2で敗れたが、ホームの第1戦を4-0で勝っていたので合計5-2で準決勝へ。そのまま優勝して大会3連覇を成し遂げている。そして、このシーズンを最後にクライフはバルセロナへ移籍した。
アヤックスの旧ホームスタジアム、デ・メールのすぐ近くで育ち、母親が働いていたスタジアムを遊び場として、やがてボールボーイからエースに成長していった。自分の家のようだったアヤックスからの移籍は喧嘩別れだった。
そもそもの発端は、1972年のスペインリーグでの外国人選手解禁。クライフと義父でマネジャーのコール・コスターは、スペインへの移籍を視野にアヤックスと「1年契約」を申し込んだ。しかし、さすがにアヤックスもこれには応じない。エースを保持するために約4億円の移籍金を設定していた。
宝石商として名を成したコスターは商売上手だ。1年契約をあっさり譲歩し、逆に7年契約をアヤックスに提示。そのかわり移籍金を1億2000万円まで下げさせた。さらに負傷などでプレーできない場合でも、7年分の年俸は保証されるという条項を盛り込んだ。結局、これが決め手になっている。
スペインの市場がオープンになると、クライフはアヤックスの試合をボイコットした。アヤックスが移籍を認めなかったからだ。ミュンヘンの一件は本当に怪我をしていたのだが、クラブ側は信じていなかった。すでにリッチになっていたクライフに罰金は効き目がない。出場停止処分では喜ぶだけ。アヤックスにとっては、7年契約が仇になっていた。クライフは法廷闘争までちらつかせ、全く折れる姿勢がない。このままなら残り5年間、プレーしない選手に年俸を払い続けることになる。一方、ミュンヘンの件でチームメートからの信頼は失われ、アヤックスにクライフの居場所はなくなっていた。
西部謙司
にしべ・けんじ/1962年生まれ、東京都出身。サッカー専門誌の編集記者を経て、2002年からフリーランスとして活動。1995年から98年までパリに在住し、欧州サッカーを中心に取材した。戦術分析に定評があり、『サッカー日本代表戦術アナライズ』(カンゼン)、『戦術リストランテ』(ソル・メディア)など著書多数。またJリーグでは長年ジェフユナイテッド千葉を追っており、ウェブマガジン『犬の生活SUPER』(https://www.targma.jp/nishibemag/)を配信している。