Jクラブから部活への挑戦 高校選手権“優勝”を1年目で達成も…「勘違いしたくなかった」
心に引っかかっていた松本育夫氏の言葉
吉永は清水に続き、サガン鳥栖ではアカデミーを指導し、2009年に山梨学院高校からヘッドコーチのオファーを受けた。
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「アビスパ福岡が試合をしていたので、どんなチームなのか聞いてみました。ベンチが昔の高体連の雰囲気で酷いチームとのことでした」
ところがなぜか吉永は、教員として山梨学院高校へ赴任する。
「心に引っかかっていたのは、松本育夫さん(メキシコ五輪銅メダリスト、元サガン鳥栖監督)が24時間選手のことを考え続けた、と話していたことです。それに比べて自分はまだ中途半端じゃないか、と。ちょうど山梨学院には寮があり、そこに入れば24時間寄り添える。それが決め手になりました」
松本と言えば伝説となっているのが、1979年ワールドユース選手権(現・U-20ワールドカップ)へ向けての熱血指導である。後にブンデスリーガでプレーする尾崎加寿夫主将が血尿を出すほど過酷な合宿が続いたが、監督の松本は自ら早朝5時に起きて選手たちのためにトーストを焼き、卵を茹でたという。
教師兼監督になった吉永も、慣れるまでは夜も眠れず激務となった。時にはグラウンドで強烈な睡魔に襲われ、ランニングをする選手たちのタイムを計りながら記憶が飛び、気がつけば周りから笑いが漏れていることもあった。
「思った以上に選手たちのレベルは高かった。でも高校のレベルが判らなかったし、元気が良くて特徴のある子たちだったので、良いところを残しつつもう少し大人にならないと、ということで対話を繰り返しました」
山梨学院は、サッカー部を強化し始めて初年度に入学した選手たちが最上級生になっていた。春には関東を制し、秋には選手権に初出場。吉永は指導者として「国立へ行く」という目標をいきなり叶え、一気に頂点に上り詰めた。しかし吉永は、このタイトルを自分の実績としてはカウントしていないという。
「選手権は、あくまで通過点であることを何より指導者が理解することが一番大事だと思います。頂いたメダルは学校に寄贈しました。自分自身が勘違いしたくなかったからです。ただみんなの頑張りが報われたことは良かったと思っています」
吉永は翌年から監督に就任し、さらに6年間チームを指揮した。(文中敬称略)
(第3回へ続く)
(加部 究 / Kiwamu Kabe)
加部 究
かべ・きわむ/1958年生まれ。大学卒業後、スポーツ新聞社に勤めるが86年メキシコW杯を観戦するために3年で退社。その後フリーランスのスポーツライターに転身し、W杯は7回現地取材した。育成年代にも造詣が深く、多くの指導者と親交が深い。指導者、選手ら約150人にロングインタビューを実施。長男は元Jリーガーの加部未蘭。最近選手主体のボトムアップ方式で部活に取り組む堀越高校サッカー部のノンフィクション『毎日の部活が高校生活一番の宝物』(竹書房)を上梓。『日本サッカー戦記~青銅の時代から新世紀へ』『サッカー通訳戦記』『それでも「美談」になる高校サッカーの非常識』(いずれもカンゼン)、『大和魂のモダンサッカー』『サッカー移民』(ともに双葉社)、『祝祭』(小学館文庫)など著書多数。