“失明危機”の31歳DF、C大阪→G大阪の“異色経歴” 禁断の移籍で掴んだものとは?
【松本光平インタビュー|第2回】C大阪ジュニアユースからG大阪ユース行きを決意 「プロになりたい」
今、この瞬間、必死に戦い続けている選手がいる。31歳のDF松本光平だ。昨年12月に開催されたFIFAクラブワールドカップ(W杯)に唯一出場した日本人選手。オセアニア王者ヤンゲン・スポール(ニューカレドニア)の一員として出場を果たし、バルセロナのレジェンド、シャビ・エルナンデス監督が率いるアル・サッドと対戦した。現在はニュージーランドのハミルトン・ワンダラーズに所属するが、新型コロナウイルスの影響を受けての自粛期間中に不慮の事故に見舞われた。アクシデントにより、現在は失明危機に陥る。そんな松本が「Football ZONE web」の取材に応じ、悪夢の事故から手術までの状況を語った前回に続き、自身がユース時代に決断した「禁断の移籍」について振り返った。
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松本は5月中旬、新型コロナウイルスの影響を受けてニュージーランドの自宅で自主トレーニング中に事故に遭った。ガレージの壁に取り付けたチューブを使って鍛えている時、留め具が外れて右目を直撃。左目もチューブを強打した。ハミルトンの病院では「手の施しようがない。視力が戻ることはもうない」と宣告され、帰国後に横浜の眼科を受診。「回復する可能性は1%か2%」と言われたが、二つ返事で手術を決意し、現在は“失明危機”と戦っている。
サッカーを始めたのは小学生の頃。「とにかく上手くなりたい」という一心で、6年生の時にセレッソ大阪ジュニアユースの一般セレクションを受けた。見事合格し、同学年にはFW柿谷曜一朗、一つ下にはMF山口蛍やDF丸橋祐介らがいた。
「地元がセレッソ(の本拠地)に近くて、ずっと入りたいと思っていた。(柿谷は)めちゃくちゃ上手かった。1人だけ別格。でも、上のカテゴリーに行っていたので、試合の時だけ来てくれていた。僕らの代はあまり強くなくて、ガンバが強かった。中学3年間で1回も勝てなくて、ガンバは日本一になるぐらいだった」
Aチームで活躍していた松本だったが、迷った挙句、下した決断はG大阪ユースへの“移籍”だった。言わずもがな大阪の宿敵チーム。たとえアカデミーであっても、C大阪ジュニアユースからG大阪ユースへ移ることはほとんどなかった。C大阪ユース昇格の打診もあったなか、松本は「高いレベルにいきたい。プロになりたい」と、”禁断の移籍”を決意した。
G大阪ユースも狭き門の一般セレクションを受験。中学時代に続いて合格し、今度は青黒のユニフォームに袖を通すこととなった。