日本に衝撃を与えた王国ブラジルの技術 苦しい“訓練”を凌駕した“遊び”で磨いたプレー

日本代表でも活躍したラモス瑠偉【写真:Getty Images】
日本代表でも活躍したラモス瑠偉【写真:Getty Images】

【識者コラム】ブラジル出身選手が日本リーグにもたらした“衝撃”

 日本サッカーの発展に、ブラジルとの関係は切っても切り離せない。

 まず国内リーグに最初に異質を持ち込んだのが日系ブラジル人で、亡くなったネルソン吉村さんだった。吉村さんはサンパウロの日系人リーグの初代得点王で、サッカーの練習をしたことはなく、週末だけ試合に参加していた。そんな吉村さんが、日本リーグのヤンマー(現・セレッソ大阪)の練習に参加してみて驚いた。

「オイ、なんでみんなリフティングもできんねん!」

 基本的にリフティングは、1960年にデットマール・クラマー氏が日本代表に初めて紹介したトレーニング方法だから、ヤンマーの大半の選手たちが未経験なのは当然だった。

 一方、読売クラブ(現・東京ヴェルディ)には、同じく日系人リーグでプレーしていたジョージ与那城氏が加入。プレーの衝撃は想像を超えていたという。

 ユース一期生だった元日本代表の小見幸隆氏が語っていた。

「読売にも関東大学得点王の選手も入って来ていましたが、比べるのが可哀想になるくらい。千葉(進=初優勝時の監督)などは、もう辞めたくなった、と言っていました。年齢も一緒でサッカーに費やした時間はオレのほうが多いかもしれない。よく走ったし、厳しいトレーニングにも耐えてきたのに……と。とにかく僕の教科書は、ジョージとラモス(瑠偉)でした」

 日系人選手たちを皮切りに、ブラジル人選手たちの助っ人もリーグに参戦するようになり、日本でもテクニックを大切にする流れが生まれた。また1970年には、録画ながら日本で初めてワールドカップがテレビで紹介されたので、圧倒的な力を見せつけたペレを軸とするブラジル代表が日本の指導者や少年たちを強く刺激した。

 さて、改めて重要な示唆をしているのが、亡くなった千葉氏の言葉である。千葉氏は、一生懸命厳しいトレーニングを積み重ねて、日本のトップレベルに到達した。それに対し吉村、与那城両氏は、週末にリーグ戦をこなしていただけの草サッカー選手だった。特に与那城家では躾が厳しく、勉学に励むことを優先していたため、サッカーは自宅から離れた場所で隠れてプレーしていたという。しかし吉村氏は、日本国籍を取得して代表入りし、ライバルの韓国を4-1で下す原動力になったこともある。与那城氏に至っては、コーチに転身した後に一緒にボールを蹴ったビスマルクが「こんなに上手い日本人は見たことがない」と驚いたそうである。

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加部 究

かべ・きわむ/1958年生まれ。大学卒業後、スポーツ新聞社に勤めるが86年メキシコW杯を観戦するために3年で退社。その後フリーランスのスポーツライターに転身し、W杯は7回現地取材した。育成年代にも造詣が深く、多くの指導者と親交が深い。指導者、選手ら約150人にロングインタビューを実施。長男は元Jリーガーの加部未蘭。最近選手主体のボトムアップ方式で部活に取り組む堀越高校サッカー部のノンフィクション『毎日の部活が高校生活一番の宝物』(竹書房)を上梓。『日本サッカー戦記~青銅の時代から新世紀へ』『サッカー通訳戦記』『それでも「美談」になる高校サッカーの非常識』(いずれもカンゼン)、『大和魂のモダンサッカー』『サッカー移民』(ともに双葉社)、『祝祭』(小学館文庫)など著書多数。

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