なぜメキシコでプロ指導者に? 「日本よりチャンスがある」監督学校、異国で戦う2人のコーチ

ケレタロU-14を指導する塩沢氏【写真:福岡吉央】
ケレタロU-14を指導する塩沢氏【写真:福岡吉央】

塩沢氏は日本人として初めて1部クラブ下部組織の指揮官に就任

 授業が始まるのは毎年7月からの年1回。メキシコ人にとっては授業料が高額なため、半年勉強した後、1年間働いてお金を貯め、再び学校に戻ってくる人もいるのだという。

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 日本の場合、S級ライセンスを取ろうとすると推薦が必要で、講習を受講できる人数も限られているため順番待ちの状態。プロ経験のない人間にとって、S級までたどり着くのは非常に難しいのが現状だ。給田氏は「メキシコだと次の段階に進むのに、日本のように1年待たなければいけないというルールもないし、推薦もいらない。もちろん、元プロの人がパッと入ってきて自分よりも上のカテゴリーに就くというのはありますが、日本よりはチャンスもある」と話す。

 そんな監督の資格をメキシコで取得し、日本人として初めて1部クラブの下部組織の指揮官に今年就任したのが塩沢氏だ。34歳の塩沢氏は長野高専に通っていた17歳の時に現役を退き、指導者の道を志すようになった。少年時代はサッカー小僧。中学時代は長野県内の地区のトレセンにも選ばれていたが、いつしか選手ではなく、別の形でサッカーに関わりたいと思うようになっていった。

 高専ではサッカー部に所属しながらも、J3長野パルセイロの前身で、当時北信越リーグに所属していた長野エルザの練習に加わるようになり、練習メニューを組むなど学生コーチとしての道をスタート。そして2年間、ジュニアユースのアシスタントコーチも務めた。通訳担当者の不在時には、トップチームのブラジル人監督バドゥ氏の臨時通訳を英語で務めたこともあった。4年時には留年するほどサッカーの指導にのめり込んだ。

 高専卒業後は鹿屋体育大に編入。大学院にも通い、計4年間、大学のチームや地元の地域スポーツクラブで指導に携わった。そして大学院卒業後、メキシコ行きを決断した。

「英語を勉強するのも好きで、大学に行く前から、いつか海外に行ってみたいなという思いが漠然とあったんです。両親が教員で、自分も教員免許も取ったんですが、そこまで教員になりたいという思いはなかった。教員になってサッカー部の顧問としてサッカーに関わるというのが現実的だったけど、顧問になりたいから教員になるのは違うなと思っていた」

 そんな時、日本サッカー協会(JFA)のホームページで見つけたのが、日本とメキシコ両政府による「日墨研修生・学生等交流計画」(現・日墨戦略的グローバル・パートナーシップ研修計画)という1年間の留学制度だった。当時、JFAが毎年数名の候補者を募集し、外務省に推薦していた。塩沢氏は国際ボランティアの青年海外協力隊とともに、この制度にも応募。協力隊よりも先に留学の選考に合格し、2011年8月にメキシコへ渡った。

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