サッカーは五輪で“異質”な存在 成熟した現代スポーツに適さない総合競技大会の限界
サッカー界はしっかりと独立性を保つべきだ
そもそもサッカーは、こうした総合競技大会では常に異質だ。東京五輪ではマラソンの札幌開催が議論を呼んだが、サッカーも不適切なシーズンにプレーする条件は同じで、会場も分散している。
それは全国高校総体も似ていて、参加選手たちは他競技と足並みを揃えるから、夏休みの1週間に世界に例を見ない地獄のスケジュールに直面する。日本でも1962年以前は、競技ごとに全国大会が開かれていたが、高体連が性格の異なる競技を一括しインターハイ(全国高校総体)を創設したために矛盾が生じた。なにしろサッカーが終われば、追いかけるように水泳が始まるのだから無茶振りにもほどがある。
サッカーのワールドカップは言うに及ばず、他の競技でも世界選手権の質が高まり、五輪に肉薄、あるいは凌駕するケースも出てきた。五輪は収益増加を目当てに競技数を増やすが、逆にランキング制などを導入し参加人数を絞り込もうとするために旬な選手が弾かれてしまうこともある。要するに本来は、各競技が適切な時期に最高の選手たちを集めて世界一決定戦を行うほうが、当然中味は濃くなる。
もはやそれぞれの競技にプロが生まれ成熟してきた時代には、総合競技大会はあまり意味を成さない。いずれにしても今後、これほど危険なイベントの開催に喜んで手を挙げる都市(国)が出てくるとも思えない。国内外を問わず、サッカー界はしっかりと独立性を保ち、最も普及発展していく道を追求していくべきだと思う。
(加部 究 / Kiwamu Kabe)
加部 究
かべ・きわむ/1958年生まれ。大学卒業後、スポーツ新聞社に勤めるが86年メキシコW杯を観戦するために3年で退社。その後フリーランスのスポーツライターに転身し、W杯は7回現地取材した。育成年代にも造詣が深く、多くの指導者と親交が深い。指導者、選手ら約150人にロングインタビューを実施。長男は元Jリーガーの加部未蘭。最近選手主体のボトムアップ方式で部活に取り組む堀越高校サッカー部のノンフィクション『毎日の部活が高校生活一番の宝物』(竹書房)を上梓。『日本サッカー戦記~青銅の時代から新世紀へ』『サッカー通訳戦記』『それでも「美談」になる高校サッカーの非常識』(いずれもカンゼン)、『大和魂のモダンサッカー』『サッカー移民』(ともに双葉社)、『祝祭』(小学館文庫)など著書多数。