メキシコから東京五輪へ “プロ経験なし”の日本人コーチ、異国で切り拓いた指導者の道
「ここで挑戦してみたい」 留学期間後に再びメキシコへ、無給でクルスアスルに所属
高い志を持って渡ったメキシコでは、草サッカーレベルでも真剣に勝利を目指すメキシコ人たちの姿に衝撃を受けた。
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「彼らは道端でやるサッカーでも、勝つためのプレーをする。上手くなくても、勝つために何をしなければいけないかを分かっている。こいつは潰さないといけないとか、ここはファウルで止めないといけないとか。球際も、日本ではガチでいくと周りに注意されていたけど、メキシコは緩さが全くない」
肘打ちや、足を踏まれるのも当たり前。審判が見ていないところでは殴られたこともあったという。
だが、1年の留学期間を終える頃、西村氏の気持ちは変わっていた。留学期間中は、監督学校に聴講生として通学。メキシコシティを本拠地とするクルスアスルやプーマス(UNAM)の下部組織の練習を頻繁に見学し、そこから人脈を広げ練習の手伝いもするようになっていた。
「正直、ここで成功するのは難しそうだなと思いました。でも一方で、メキシコで指導者としてやっている日本人はほとんどいなくて、ここで挑戦してみたいなとも思ったんです」
いつの間にか、頭の中からスペインやアルゼンチンへ行く選択肢は消えていた。留学報告のため一旦帰国した西村氏は、2週間後、迷うことなく再びメキシコに渡ると、監督学校入学の手続きを済ませ、並行して指導者としても動き出した。
最初の所属先は、監督学校で知り合った友人のいたクルスアスルだった。クラブ内の5部チームのコーチとして所属。だが給料は無給だった。
「ちゃんと雇ってほしかったんですが、『直に契約するから待ってくれ』という状態が続いて、一向に契約してもらえなかった」
生活が苦しくなってきたこともあり、約1年でチームを去った。
その後、メキシコシティにあるパチューカの支部の下部組織で働いた後、正規雇用のスクールコーチとしてクルスアスルに戻ると、その数カ月後にはU-20、U-17のGKコーチ兼アシスタントコーチとしてオファーを受けた。
「GKの経験はなかったんですが、プロの卵たちがいる環境でできるし、いいかなと」
そして2013年夏に、晴れて監督学校を卒業。メキシコでトップチームの監督ができる資格を手にした。だが、お門違いのGKコーチの仕事には馴染むことができなかった。「クルスアスルはそろそろ潮時かなと思った」という西村氏は、すぐに動いた。