温泉街で闘った伝説の“泣き虫”監督、J2群馬で17年ぶり再出発 「夢の続きを追いかけたい」
【J番記者コラム】選手兼監督として“ザスパ草津”の礎を築いた奥野僚右、2003年以来のクラブ帰還
この男がいなければザスパクサツ群馬というクラブは、2005年にJリーグへ昇格していなかった。いや、J昇格どころかクラブが存続していなかったかもしれない。
奥野僚右。Jリーグ誕生の1993年から99年まで鹿島アントラーズでプレーし、王者の礎を築いたDFの1人。Jリーグのオールドファンであれば、小柄な体躯で屈強な相手FWを封じた勇姿が脳裏に浮かぶはずだ。
その後、川崎フロンターレ、サンフレッチェ広島でプレーした闘将が、次の舞台に選んだのが群馬県リーグ1部の「ザスパ草津」(当時)だった。日韓ワールドカップ(W杯)が開催された2002年、草津温泉で活動をしていた「リエゾン草津」が「ザスパ草津」へ改名。「温泉街からJリーグへ」を合言葉に、新たなスタートを切った。
GMは大西忠生(元セレッソ大阪副社長)、総監督は植木繁晴(元ベルマーレ平塚監督)。そのクラブに選手兼監督として加わったのが、奥野だった。チームの初期メンバーには、若手に混じって元日本代表GK小島伸幸(今季から群馬GKコーチ)も名を連ねた。奥野、小島ら往年のスタープレーヤーの加入に、温泉街は沸いた。
経営母体を持たない“おらが街”のサッカークラブが、Jリーグ昇格を目指すという夢のような物語。周囲から「Jリーグになんか上がれるわけがない」「無謀だ」といった声が聞こえたなかで、奥野は本気だった。温泉街という特異な地域からJリーグを目指すという趣旨に、多くの企業が賛同。初期ユニフォームは「ユニクロ」が提供した。
しかしながら経営面は自転車操業、最短3年でのJ2昇格を果たせなければクラブは解散を視野に入れていた。
負けられない戦い――。奥野は、若い選手たちを率いて過酷なチャレンジに乗り出した。ミーティングでは想いがこみ上げるあまり、涙が溢れたこともあったという。
「負けられない状況に加えて、Jリーグに認めてもらうためには圧倒的な強さを見せて勝ち上がる必要があった。足踏みができないなかで、1試合1試合が命懸けだった。自分たちの後に続くクラブのためにも、道を切り拓く必要があった。だから試合後のミーティングで話しているうちに気持ちが入ってきてしまって、涙がポロポロと落ちてきた。それを見ていた息子から『パパは、泣き虫監督だね』って言われました」