日本リーグ初の黒人選手が死去 半世紀前に来日、人気者のブラジル人が果たした役割

日本のトップリーグで活躍した初めての黒人選手カルロス・エステベス氏が亡くなった(写真はイメージカットです)【写真:Getty Images】
日本のトップリーグで活躍した初めての黒人選手カルロス・エステベス氏が亡くなった(写真はイメージカットです)【写真:Getty Images】

【識者コラム】ヤンマーで活躍したカルロス・エステベス ネルソン吉村らと一時代を築く

 日本のトップリーグで活躍した初めての黒人選手カルロス・エステベスが亡くなった。

 来日したのは1968年、まだアマチュアの日本サッカーリーグ(JSL)が8チームで構成されていた時代で、リーグ全体を見渡しても助っ人は日系2世のネルソン吉村(後に帰化して吉村大志郎)だけだった。

 第二次世界大戦を経て低迷を続ける日本サッカーの転機は、1964年に開催された東京五輪だった。その6年前に自国で開催されたアジア大会でグループリーグ最下位に甘んじたJFA(日本サッカー協会)は、打開策として西ドイツに指導者の派遣を依頼。やがて「日本サッカーの父」と呼ばれるデットマール・クラマーが来日し、東京五輪でのベスト8を経て、その4年後にはメキシコ五輪での銅メダル獲得につながった。だがドイツの組織的なサッカーが結実した反面、柔軟なテクニックの習得はむしろ敬遠されてきた。

 そもそもクラマーが導入したことで、当時の日本代表選手たちも初めてリフティングに挑戦した。吉村がヤンマーディーゼル(現セレッソ大阪)に加入した頃も、チーム内の大半の選手たちがリフティングもできない状況に驚いたという。旧き指導者たちは、南米の選手たちが見せる軽業のようなテクニックを「真似するな」とクギを刺す傾向が強かったそうだ。

 だがブラジルでは、多くの日系人選手たちがすでに秀逸なテクニックを身につけていた。

 後に来日して「ミスター読売」と呼ばれたジョージ与那城が語っている。

「実力的にプロになれる選手はたくさんいたと思う。でも僕らの父親世代は厳格で働き者だった。一生懸命働いてきた親は、みんな自分の子供にしっかりとした教育を受けさせようとする。サッカーは、みんな親の目が届かないところでしたものです。日系人からあまりプロ選手が出なかったのは、そういう背景があったからですよ」(拙著「サッカー移民」より)

 サンパウロの日系人リーグでプレーし、練習もしたことがなかったという吉村のテクニックは、日本では図抜けていた。そこにバイシクルキックなどアクロバティックなプレーで人気を博したカルロスが加わり、ヤンマーは1968年度の天皇杯を制覇。さらに日系人のジョージ小林も加入し、1971年にはリーグ優勝を成し遂げた。

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加部 究

かべ・きわむ/1958年生まれ。大学卒業後、スポーツ新聞社に勤めるが86年メキシコW杯を観戦するために3年で退社。その後フリーランスのスポーツライターに転身し、W杯は7回現地取材した。育成年代にも造詣が深く、多くの指導者と親交が深い。指導者、選手ら約150人にロングインタビューを実施。長男は元Jリーガーの加部未蘭。最近選手主体のボトムアップ方式で部活に取り組む堀越高校サッカー部のノンフィクション『毎日の部活が高校生活一番の宝物』(竹書房)を上梓。『日本サッカー戦記~青銅の時代から新世紀へ』『サッカー通訳戦記』『それでも「美談」になる高校サッカーの非常識』(いずれもカンゼン)、『大和魂のモダンサッカー』『サッカー移民』(ともに双葉社)、『祝祭』(小学館文庫)など著書多数。

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