東京五輪代表の混迷招いた「JFAの責任は重い」 欧州組“急増”で崩れた強化のビジョン
【識者コラム】五輪代表の命運を握るのは監督以上に技術委員会の“交渉力”
プロ創設前の日本サッカーには、3つの奇跡的な快挙があった。
まず1936年ベルリン五輪で優勝候補のスウェーデンを破った。次に64年東京五輪でアルゼンチンを下した。そしてその4年後のメキシコ五輪での銅メダル獲得である。
この銅メダル獲得で日本でもサッカーという競技が認知されるようになり、第一次ブームが訪れ、子供たちがボールを蹴るようになった。しかし、後に日本代表監督としてワールドカップ(W杯)に挑む森孝慈氏(故人)は「銅メダルといっても、世界にはもっと強いチームがたくさんあるのを知っていたので、複雑な思いもあった」と述懐している。
実際メキシコ五輪前には欧州に長期遠征をしているが、チェコスロバキア(当時)代表や各国のクラブチームを相手に8連敗。最後のドイツでの地域選抜戦でやっと1勝を挙げて帰国した。結局五輪はW杯に手が届かない時代の最大目標で、プロ創設後もフィリップ・トルシエ時代までは国内組中心の構成だったから、強化日程の確保に困ることはなかった。
それでも1970年代までの五輪は、「アマチュア世界選手権」と定義が明確だったから、参加国の格差はともかく、それなりのレベルが担保された。プロのない東欧諸国はフル代表で、64年東京、68年メキシコと連覇したハンガリーは「今ならレアル・マドリード級のビッグクラブに入っていた」(“日本サッカーの父”と称されたデットマール・クラマー氏)レベルの選手がプレーしていたという。また72年ミュンヘン五輪を制したポーランドは、イングランドを倒して2年後のW杯に出場し、3位と旋風を巻き起こした。
だが五輪もプロ化の傾向が強まると、IOC(国際オリンピック委員会)とFIFA(国際サッカー連盟)の綱引きが始まる。出場規定は何度か変遷の末に、「23歳以下+オーバーエイジ3人」という中途半端な規定に落とし込まれたわけだが、クラブ側に代表招集に応じる義務がなくなったため、東京五輪の男子サッカーはフタを開けてみるまでどんなレベルの大会になるのか未知数だ。
今回のU-23アジア選手権でグループリーグ敗退が決まると、JFA(日本サッカー協会)の田嶋幸三会長は「ベストメンバーが組めたのはコロンビア戦のみ」と森保一監督をかばったが、そもそも技術委員会が招集可能なメンバーを明かさない現状では、逆に欧州組から誰にドタキャンされても不思議はない。
もちろんこの条件は、全参加国に平等だ。シーズン終了後に、五輪より遥かに優先度合いが高い欧州選手権(EURO)が開催される欧州の代表国(スペイン、ドイツ、ルーマニア、フランス)が、本気でトップレベルの選手を招集してくるとは考え難い。
加部 究
かべ・きわむ/1958年生まれ。大学卒業後、スポーツ新聞社に勤めるが86年メキシコW杯を観戦するために3年で退社。その後フリーランスのスポーツライターに転身し、W杯は7回現地取材した。育成年代にも造詣が深く、多くの指導者と親交が深い。指導者、選手ら約150人にロングインタビューを実施。長男は元Jリーガーの加部未蘭。最近選手主体のボトムアップ方式で部活に取り組む堀越高校サッカー部のノンフィクション『毎日の部活が高校生活一番の宝物』(竹書房)を上梓。『日本サッカー戦記~青銅の時代から新世紀へ』『サッカー通訳戦記』『それでも「美談」になる高校サッカーの非常識』(いずれもカンゼン)、『大和魂のモダンサッカー』『サッカー移民』(ともに双葉社)、『祝祭』(小学館文庫)など著書多数。