来季湘南加入の青森山田MF神谷が高校サッカーを選んだ理由 “思うがままに生きる覚悟”
一意専心――。
10代の少年は自らの意志に従い、決断を下してきた。そうして思い描いたプロへの道を切り開いた。
特異なキャリアを歩む男は、憧れだった青森山田の「10」を背負い、最初で最後の選手権に挑む。
人生を変える最初の決断
人生を変える、2度の大きな決断があった。山形から東京、そして青森へ。そうした環境の変化を経て、神谷優太はたくましくなった。「決断を下した以上、全ての責任は自分が取る」。彼の固い意志の裏側には、一体何があったのか――。
山形市で生まれ育ち、小学校時代から非凡な選手として知られる存在だった。そして、1度目の決断の時はやって来る。小4だった2007年の第31回全日本少年サッカー大会決勝戦の東京ヴェルディジュニア対鹿島アントラーズジュニア戦。その模様をテレビ放送で見て衝撃が走った。
「ヴェルディジュニアにはレベルの高い選手がたくさんいた。圧倒的な力で優勝し、もっと高いレベルのサッカーがあると知った。高みを目指すなら、今のままでは絶対に置いていかれる。ここに行かないとダメだと思うようになった」
すぐに行動に移した。翌年のバーモントカップで、初めて生の東京Vジュニアを見た。「オーラが違った。やっぱりここでなら絶対に成長できる」。そう確信した。幸運なことに、バーモントカップのプレーで、さまざまなチームから声が掛かった。そのうちの一つには東京Vジュニアもあった。
迷うことなく東京行きを決意し、母親と上京した。望んでいた環境でサッカーに打ち込むと、メキメキと頭角を現した。ジュニアユース昇格も決まったころ、テレビで何げなく見た第88回全国高校サッカー選手権大会の試合で、再び心を突き動かされた。
「青森山田の柴崎岳選手(現・鹿島)のプレーを見て、自分の中で何かが変わった。魔法を見ているような気がした。当時から自分も意識していたけど、長短のパスの使い分けの精度の高さや、判断の速さを見て『あ、これが僕の理想だ』と思った。それに高体連でもこんな素晴らしい場所、環境でサッカーができるんだと感動した」
この大会で青森山田は準優勝に輝いた。中でも2年生MF柴崎の質の高いプレーは、多くの人たちを魅了した。彼もその中の一人であった。同時に、柴崎がプレーする環境も、自然と憧れの対象になっていった。プロになりたくて、東京Vの下部組織の門をたたき、必死でやって来た彼にとって、この衝撃はいつまでも心に残った。
ジュニアユースでは中1からナショナルトレセンメンバーに入り、U-15日本代表に選出されるなど、チームの中でもエース格に成長した。当然のようにユース昇格の話が彼の元に届いた。
「正直、迷いました。中学3年間、ずっと心のどこかで『青森山田でサッカーがしたい』という思いがあった。このままユースに上がって良いのかと…」
迷いのふちにいた神谷は、家族に相談した。すると、「上がれない選手もいるんだから、誇りを持って昇格しよう」と諭され、そのとおりだと思った。レベルの高い環境の中で、自分を鍛えようと昇格を決めた。この時、親からは一枚の写真を見せてもらった。それは青森山田の選手たちが、真っ白な雪の上でサッカーをしている写真だった。「柴崎選手はこの厳しい環境の中で育ったんだよ」。この一言が、心に残った。だが、この言葉が決断の後押しをしたのは、もう少し先の話だ。