無給、強盗被害、標高3000m超… 36歳元Jリーガー、過酷な南米で闘い手にしたものとは?
本田圭佑の兄らと学んだスペイン語、“無給”から這い上がる
環境に即したサッカー。日本とは比べものにならないほど劣悪なピッチに時に足を取られることもあるが、日頃から体のケアも入念に行うなど、高いプロ意識は経験の少ない若手のお手本にもなっている。
チームメートとは流暢なスペイン語でコミュニケーションを取る。スペイン語はリーベル・プレートの下部組織時代に学んだ。現在、本田圭佑の代理人を務める本田の兄、弘幸氏も同じリーベルの下部組織に所属しており、彼とも同じクラスで机を並べていたという。
「当時、チームには20人くらいの日本人がいたんですが、ちゃんと授業に出ていたのは僕と本田くんともう1人の3人だけでした。最初の頃は外で友だちと会う時も、辞書を持っていかないとコミュニケーションがとれないようなレベルでしたが、リーベルでは高校生よりも上の年代の選手は練習後、学校に行く代わりにチームの事務所などで仕事の手伝いをするんです。その時に現地の人たちと会話をする機会が多く、電話番もしていたので、それで語学力が磨かれました」
若手時代から通訳を付けたことは一度もなく、まさに現場での叩き上げ。地元メディアの取材対応にもスペイン語で積極的に応じ、今ではジョークも交えるほどだ。ペルーには日本からの移民の子孫である日系人が多く住んでいるが、そんな環境の中でもスペイン語が堪能な澤は有名な存在だ。日系ペルー人のミュージシャンとテレビ番組で共演したり、番組で寿司を握ったりと、言葉が話せることで、その活動の範囲はグラウンド外にも広がっている。
ペルーでは、無給から這い上がってきた。05年のスポルティング・クリスタル時代は基本給がなく、試合に出場し、勝った時にもらえる勝利給のみの契約。06年のコロネル・ボロネーシでも月給約2万円からのスタートだった。
「他の選手と市場とかに出かけても、僕があまりにも何も買わずに節約していたら『お前はフルーツジュースすら買わない。なんでそんなにタカーニョ(スペイン語でケチの意味)なんだ?』って言われてしまったこともありました。ある時チーム内で、みんな給料はいくらだという話になって、僕が一番安かった。それで主力のベテラン選手がオーナーのところに僕を連れていって、『なんでチームで一番得点を決めている選手が一番安い給料なんだ? そんなのおかしいだろ』と言ってくれて、上げてもらえたんです」
実績のなかった当時は、結果を残してより良いクラブへと移籍することが目標だった。そんながむしゃらな姿勢が実を結び、ペルー国内のトップクラブまで駆け上がり、2008年に日本の柏へ移籍した。