「給料はいくらでも良かった」 元柏の澤昌克、36歳でキャリア3度目のペルー挑戦
「本当にニートのような生活」をしていた澤に届いた元同僚からのオファー
平日は子どもたちを学校に送った後、ジムで体を動かしたり、地元の友人らとのフットサルや草サッカーに参加。週末は日系ペルー人のアマチュアチームに混じって試合に出場し、実戦感覚を維持しようと努めた。先の見えない生活だったが、まだ選手としてやれる自信もあり、心が折れることはなかった。
「本当にニートのような生活でした。でも妻も働いていて収入はあったし、僕の考えにも理解を示してくれた。半年間は長かったですけど、家族との時間も持つことができましたし、この年になっても好きなサッカーをやらせてもらっていることには感謝をしています」
そんな澤のもとに新たなオファーが届いたのは8月。かつてのチームメートがヘッドコーチを務める、2部のウニオン・ウアラルからだった。ウアラルはリマ在住の選手がほとんどを占めることから、平日はリマ市内の他クラブのユースの練習場を借りてトレーニングをしており、試合前日だけ地元ウアラルで練習を行うというスタイルは、澤にとっても好都合だった。
「マサ、お前は今何してるんだ? 体は動かしているか? 良かったらウチに来ないか?」
コンディションを保っていた澤は、迷うことなくウアラル入りを決める。3度目となるペルーでのプロ生活だった。
澤は中央学院高を卒業後、仙台大に進学。だが、大学を休学し、2001年に18歳でアルゼンチンに渡った。リーベル・プレートの下部組織で4年間プレーした後、05年にペルーの強豪スポルティング・クリスタルに入団。その翌06年、同じ国内のコロネル・ボロネーシに移籍し、頭角を現した。コパ・スダメリカーナのコロコロ戦(チリ)で日本人初ゴールを決め、リーグ戦でも11得点。07年にはデポルティボ・ムニシパルで10得点を決め、リーグ最優秀外国人選手賞を受賞した。
ペルー代表入りも当時の監督から直々に打診を受けた。08年には当時強豪だったシエンシアーノに移籍。コパ・リベルタドーレスでは予選のモンテビデオ・ワンダラーズ戦(ウルグアイ)でゴールを決め、本戦にも出場。リーグ戦での活躍が認められ、柏と鹿島アントラーズが獲得に乗り出すなかで柏と契約し、逆輸入の形で来日すると、13年までの5年半、日本でプレーした。その後、14年にペルーに戻り、当時2部だったデポルティボ・ムニシパルに復帰。12得点を挙げ、チームの1部昇格に貢献すると、17年までプレー。18年は再び柏に戻ったが、怪我で試合出場は叶わなかった。そして、半年間の浪人期間を経て、再びペルーでピッチに立った。