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“エディージャパン”が遺した日本サッカーへのヒント 世界的監督と保った絶妙な距離感
グラウンド上で日本語でコミュニケーションを取り、選手との関係を改善
[1]世界と日本を知る指導者と長い関係をキープする
稲垣氏とエディー氏の出会いは、1997年のサントリーラグビー部ヘッドコーチ就任に遡る。後から考えると、2015年の大番狂わせの序章はここで幕が開くが、稲垣氏は「最初はやはり選手とのコミュニケーションに問題がありました」と振り返る。これは外国人指導者を招聘した時、どのスポーツでもぶち当たる壁である。
「エディーもまだ若かったので、彼自身もフラストレーションを溜めていました。でも彼が凄かったのはここから。グラウンド上で、よほど込み入った話でなければ、英語を一切使わずに日本語でコミュニケーションを取り始めたのです」
ちなみにエディー氏の妻は日本人であり、多少日本語の素地があったことも幸いした。
「それは自分から選手の目線に降りていくことができるということであり、そこから選手との関係も改善されていきました」
そして1998年に転機が訪れる。
「エディーは1997年からサントリーに入り、最初はフルタイムコーチの契約だったんですけど、本人が1998年からスーパーラグビー(国際リーグ戦)のブランビーズ(オーストラリアのクラブチーム)のヘッドコーチの候補に挙がっていました。どうするか本人も悩んでいたんですけど、僕としてはそっちに行ってくれ、その代わりサントリーとの関係は切らないでほしいということでテクニカル・アドバイザー契約となりました。年に何日間は必ずサントリーで指導をしますという契約。途中にエディーもサントリーのヘッドコーチもやりました。日本代表の時は、さすがにアドバイザーはできなかったですが、今もイングランド代表のヘッドコーチでありながら、サントリーとのアドバイザー契約は継続しています」
エディー氏も、最初から名コーチだったわけではない。彼の指導者としての資質に目をつけ、良い関係を築きつつ、かつ日本での仕事に拘泥せずに、長期間にわたって彼の世界の舞台における指導者としての成長を見守る。そして適切なタイミングで、また日本で仕事をしてもらう。
サッカーで例えるなら、元名古屋グランパスエイト(当時)の指揮官でありアーセナル前監督のアーセン・ベンゲル氏が日本代表の監督に就任し、W杯で日本を好成績に導くといったイメージであろうか。
「(エディー氏は)決してすべてハッピーなチームにいたわけではなくて、スタッフと合わなくて解任されたこともあります。最初にブランビーズで上手くいって、スーパーラグビーのチャンピオンになって、いきなりワラビーズ(ラグビーのオーストラリア代表の愛称)のヘッドコーチになりました。しかも、その時はオーストラリア自国開催のW杯の時でした。ホスト国のヘッドコーチということで、彼は非常に耐えていた部分があったと思います。
(ボブ・)ドゥワイヤーというオーストラリアでは神様のようなコーチがいるんですが、彼がエディーのことをすごく買っていて、『次はエディーにやらせるしかない』と言っていたんですが、あらゆる人が反対していたんです。なぜかというと、エディーがキャップホルダーではなかったから。エディーは(選手として)代表経験がなかった。そういう古いしきたりも世界にはありました。メディアもそのことで彼を叩いていた。たかだか一回、スーパーラグビーで優勝させただけじゃないか、と」
育成年代の選手の資質を見抜くのは、とても難しい領域だが、同様にしてそれまでの実績とは関係なく、将来への可能性で指導者の資質を見抜くのもさらに難しい。
「でも、僕とドゥワイヤーは彼のコーチングスキルに対して、ものすごく高い評価をしていた。(ワラビーズが)世界で勝つためには、オールブラックス(ラグビーのニュージーランド代表の愛称)に勝つためにはエディーしかいない、と。その後、最初はなかなか勝てなくてやっぱり批判もあったんですけど、それがガラッと変わったのが2003年。W杯準決勝でオールブラックスを破った時でした。あの時はすごい試合で、(2015年の日本と同じように)番狂わせですよ。南半球の大会、トライネーションズというんですけど、それまで3年間オーストラリアはオールブラックスに一度も勝ってなかった。当然W杯ではオールブラックスが優勝候補ナンバー1だったけど、準決勝で見事にやっつけた。決勝はイングランドと歴史に残る大死闘で、延長線の最後に(イングランドの)ジョニー・ウィルキンソンが利き足の逆でドロップゴールを入れて試合が終わったというラグビー史に残る劇的な試合をやって、エディーの地位が高められました」