コロンビアでバルデラマと“共演”した日本人DF 中南米を渡り歩いた波瀾万丈のキャリア
ドミニカ共和国のサッカー史に「アジア人初ゴール」で名を刻んだが…
何もつてがなかった山中は、ドミニカ共和国のサッカー協会に自らメールを送り、1部のアトレチコ・サンクリストバルというチームに練習生として参加できることが決定。現地在住の日本人に頼み込んで寝場所を確保し、首都サントドミンゴからバスで練習に通う日々が始まった。
選手兼任コーチにはかつてセリエAで中村俊輔(現・ジュビロ磐田)や長友佑都(現・ガラタサライ)、森本貴幸(現・アビスパ福岡)ともプレーしたことがあるというイタリア人もいた。だが、開幕までの2カ月の間に監督がクラブと金銭面で折り合いがつかず、2度も交代するハプニング。それでも山中は契約を勝ち取ると、開幕2戦目で念願のゴールを決めた。翌日の地元紙には「ドミニカ共和国で初めてゴールを決めたアジア人」として大きく取り上げられたという。
「スタンドもほぼ満員だったし、ドミニカサッカーの歴史に名を刻むことができて嬉しかった。日本は中国の中の一部の都市だと思っている人も多かったし、世界地図を見せたら『日本は小さい国だな』と言われてバカにされていたけど、あのゴールは今でも誇りに思います」
だが、ドミニカ共和国でも不可解なことが起こった。出場機会を得て軌道に乗り始めたかと思った矢先のこと。それまで出場機会がなかったエクアドル人選手の代理人がチームを訪れ、山中を外すよう要求。山中は突然、練習にも参加できなくなり、退団が通達された。
「僕が契約書だと言われてサインしていた書類は、実は正式なものではなかったんです。確かに文章も曖昧だったし、契約金も書かれていなかった。騙されました。クラブはビザの手続きもちゃんとしてくれていなくて、出国の際にお前が罰金を払ったほうが安く済むと言われました」
結局、手にできたのは勝利給だけ。プロ化したばかりの同国リーグは、実情はまだまだプロのリーグではなかった。生活はほかの助っ人選手らとの共同生活だったが、提供される食事も油ものばかりで、時にフライドポテトだけだったりと、スポーツ選手としての栄養面がまったく考慮されていないものだった。
また、チームが彼らに与えた部屋は危険なエリアにあり、機関銃を持った警備員が常駐。実際に近所で銃撃戦が起こったこともあった。「今、外に出たら死ぬよ」と言われ、翌朝外に出てみると、両手を縛られ、撃たれて殺された男が血を流して道に転がっていた。パラグアイではピストルを何度も見たことがあった山中だったが、改めて中南米の怖さを思い知らされた出来事だった。