コロンビアでバルデラマと“共演”した日本人DF 中南米を渡り歩いた波瀾万丈のキャリア

パラグアイのリーグでプレーしていた当時の山中【写真:本人提供】
パラグアイのリーグでプレーしていた当時の山中【写真:本人提供】

アジア人として味わった「差別」 賄賂によってベンチ外の経験も…

「日本ではウォーミングアップ、ボール回し、シュート練習を経て紅白戦になる。でもパラグアイではシュート練習などはなく、アップをしたらすぐに紅白戦。練習から実戦的なメニューでした」

 アトレティコ・フベントゥでは、アマチュア選手として2012年の1年間プレー。左サイドバックとして定位置をつかみ、ほぼ全試合にフル出場。スペイン語も上達し、自信をつけた山中は翌13年、2部のヘネラル・カバジェロに移籍した。選手の質も上がり、チームメートには07年に南米年間最優秀選手に選ばれたこともある元パラグアイ代表FWサルバドール・カバニャスもいた。

 といってもチームはセミプロで、給料は時々わずかな勝利給が出るほか、軽食が提供される程度。それでも、相手との駆け引きや判断の早さなど、新天地で新たな経験を積んだ。

 だが、シーズン途中で監督が代わると山中はベンチ外の日々が続いた。すでに監督や選手ともコミュニケーションを問題なく取れるようになっていたが、監督から下された結論は「練習には出てもいいが、試合では使わない」という非情なものだった。

 山中は出場機会を求め、同じパラグアイ2部のリーベル・プレート(アルゼンチンの名門リーベル・プレートとは別のチーム)に移籍。ここでも、紅白戦ではレギュラー組で結果を残しても、試合ではベンチ外が続いた。監督と親しい選手の親が監督に金を握らせ、息子が出番をもらえるよう裏で動いていたからだった。その額は500〜600ドル(約5万5000円〜6万6000円)ほどだったという。

「自分は監督に賄賂を払って出場機会を得るというのは絶対に嫌だった」

 山中は半年でリーベル・プレートに見切りを付け、同じ2部のインデペンディエンテに移籍。だが、ここでもなかなか試合で出番を得ることはできなかった。

「アジア人だとどうしてもサッカーで下に見られてしまう。練習でいくら頑張ってもダメ。差別を感じた」

今、あなたにオススメ

トレンド

ランキング