日本代表DF吉田麻也が得た幸運 “クロップ流”で磨かれる世界レベルの強度
将来を嘱望される指揮官だったヒューズ、シティ解任を機に転落
無論、これはカンフル剤としての応急処置的な人事だった。サッカーの進化を目指すのではなく、強面で有名なヒューズを招いて、素早くチームに規律と結束を取り戻すのが目的だった。
だから当初は昨季いっぱい、つまりわずか2カ月間の契約だった。応急処置なのだからそれで十分だ。結果的にヒューズは、実質的な“降格決定戦”となった5月8日の昨季第31節スウォンジー戦を1-0で制して、サウサンプトンのプレミア残留を決めた。しかし監督就任直後は3連敗スタート。指揮を執った8試合の成績も2勝2分4敗で、決して目覚ましい成果を上げたとは言えない。
だが、持ち前の厳しさでチームをまとめ、なんとか土俵際で踏ん張った。吉田も「練習から緊張感が張り詰めている」と監督の存在感を話していた。そして残留の功労者になったことで、サウサンプトンはヒューズと新たな3年契約を結んだ。
流れとしては仕方がない。降格すれば1億ポンド(約140億円)のTV放映権料が吹っ飛ぶ、まさにクラブ存亡の危機。だが、それでもウェールズ人監督との正式契約はクラブにとって、また吉田にとっても、後退を余儀なくされる決断だった。
ヒューズ監督は、2000年代には将来を嘱望される指揮官だった。現役時代はマンチェスター・ユナイテッド、チェルシーで活躍。また英国人(ウェールズ人)では珍しく、バルセロナやバイエルンでもプレーした名選手だった。指導者としては、いきなり母国ウェールズ代表監督に就任し、04年9月にブラックバーンの監督に就任すると、まずは堅守を築き、翌05-06シーズンには攻撃陣の補強に成功して攻守のバランスが取れたチームを作った。そしてリーグ6位となり、UEFAカップ出場権を勝ち得た。08年6月にはマンチェスター・シティ監督に就任。また名将アレックス・ファーガソン監督の後継者として、ユナイテッド監督候補にも名前が上がっていた。
しかしシティの監督就任2年目となった09-10シーズンに、UAEの投資グループ「アブダビ」がクラブを買収したことで目標値が一気に上がり、17節で2敗ながら引き分け「7」の結果が問題視され、09年12月19日にあっさり解任された。
その後はフルハム、QPR、ストークと中堅以下のクラブを指揮したが、クオリティーが落ちるチームでは目覚ましい結果は出せず、シティ監督就任当時の輝きはすっかり色褪せてしまう。
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森 昌利
もり・まさとし/1962年生まれ、福岡県出身。84年からフリーランスのライターとして活動し93年に渡英。当地で英国人女性と結婚後、定住した。ロンドン市内の出版社勤務を経て、98年から再びフリーランスに。01年、FW西澤明訓のボルトン加入をきっかけに報知新聞の英国通信員となり、プレミアリーグの取材を本格的に開始。英国人の視点を意識しながら、“サッカーの母国”イングランドの現状や魅力を日本に伝えている。