恩師・城福浩が語る柿谷曜一朗の原風景(2) エレベーターの前に立っていた男

世界をワクワクさせろ

 城福は、そうした手法で少しずつ柿谷の陰の部分に光を当てた。できないプレーがあっても格好悪くないと言い続け、「良いモノは良い、悪いモノは悪い」と線引きをした。それでも城福は「俺ができたのは、あいつに引かれた絨毯を取ろうとしたぐらい」だとポツリとつぶやく。U-17日本代表では絶対的なエースとして君臨し、チームの期待を背負う選手になった。だが、城福はそれが成長につながったとは思っていない。その後、柿谷は世代のトップランナーから引きずり降ろされてしまったからだ。

 柿谷はU-17W杯後、C大阪に戻ると不遇を託った。同期加入の香川真司がステップアップしていく一方、09年にJ2徳島ヴォルティスへと送り出されてしまう。柿谷の移籍から2年後、当時、解説を務めていた城福は出身ということもあり、徳島の試合を担当する機会に恵まれた。試合が終わって身支度を済ませ、エレベーターを待っていたときだ。到着を知らせる音ともにドアが開くと、「絶対に挨拶しようと思って」とユニフォーム姿のまま、スパイクも脱がずに実況ブースまでやってきた柿谷がいた。会話を交わしたのはわずかな時間だった。だが、汗も拭わず、息を切らせて自分の元へと現れた柿谷を見て「代表で過ごした時間を懐かしむとともに、こいつは徳島で悔しい今を乗り越えようとしているんだな」と実感した。

「王様の椅子から転がり落ちる気持ちなんて本人にしか分からない。想像もつかないほどの悔しさだったと思う。そこで諦める選手だっているのに、あいつはサッカーから離れなかった。それがあいつのその後につながった勝因だよ

 

 育成期間を経てプロの舞台で活躍する選手は、大なり小なり、苦い経験をしている。

「時期や年齢は関係ない。苦しいときを乗り越えられたかどうかの方がずっと大切。育成の現場では、本当にいろんなことを考えさせられた。正解なんてない。携わった選手全員を成功に導くことができれば、ノーベル賞もの。簡単に人を変えられるとは俺は思わない」

 わずかな機微に触れ、共に少しずつ成長する。その繰り返しでしか人は変わることができない。その本質を知る城福が今、365日を選手と共にするクラブチームの監督業に通底する魅力を感じているのはそのためだろう。

いくつもの出会いを重ね、少年は大人へと成長した。当時、柿谷に厳しい言葉を投げかけても、何かを強制することはしなかった。だが、その城福はいま、あえて言った。「必ず、ブラジルのピッチに立て」。

 そして、柿谷は日本の背番号「11」を背負い、サッカー王国での祭典に臨んでいる。ボールが浮き上がり、自分の足元に収めた瞬間、いまは世界をワクワクさせる選手として。

城福浩(じょうふく・ひろし)

1961321日生まれ、徳島県出身。早稲田大学卒業後、富士通に入社しサッカー部で選手、指導者として活躍。その後、ナショナルトレセンのコーチや、十代の世代別日本代表監督を歴任。2006年、U17日本代表監督としてアジア選手権優勝。2008年からFC東京監督に就任し、2009年ヤマザキナビスコカップを制覇。2012年から甲府を率いる。

【了】

馬場 康平●文 text by Kohei Baba

 

※ワールドカップ期間中、サッカーマガジンゾーンウェブが記事内で扱うシーンやデータの一部はFIFAワールドカップ?公式動画配信サイト&アプリ『LEGENDS STADIUM』で確認できます。
詳しくは、「LEGENDS STADIUM 2014 – FIFAワールドカップ公式動画」まで

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