“芸術家”ピルロが達した境地 叶わなかったスペイン行きと30代で再び迎えた黄金期
二度訪れたスペイン二大クラブへの移籍のチャンス
ピルロのキャリアでトピックスになることは、スペインへの移籍が本人の意思に反して実現してこなかったことだろう。
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2006年ドイツW杯を制した直後、新シーズンに向けてピルロにはレアル・マドリードからオファーが舞い込んでいた。すでにピルロは移籍する気しかなく、知人にはあえてスペイン語で挨拶をするなど、心はマドリードに飛んでいた。
しかし、所属するACミランはそれを許さなかった。結局、レアルとミランの間ではクラブ間交渉が成立しなかった。この時、ピルロは当時のアドリアーノ・ガリアーニCEOから年俸部分が白紙の契約書を渡され、好きな金額を書けとまで言われたのだという。
さらに2010年の夏には、プレシーズンマッチでバルセロナと対戦した試合後、当時チームを率いていたジョゼップ・グアルディオラ監督から直接バルセロナ移籍を勧誘されたことを自伝で明かしている。当時はズラタン・イブラヒモビッチが両チーム間で移籍するか否かの渦中にあり、多くのメディアや選手たちも彼を追いかけまわした。その間隙を縫うように、グアルディオラ監督は自身のスタッフを使ってピルロを自分のオフィスに招いて、バルセロナ入りを熱望する気持ちを直接伝えた。しかし、この時もミランがピルロを手放すことはなく、スペイン行きはキャリアの最後まで実現しなかった。
そして翌シーズン、負傷がちのピルロを外した状態で、当時のマッシミリアーノ・アッレグリ監督はチーム作りを進める時間を長くとった。それによってバランスを確立したチームから、自然とピルロの居場所がなくなっていく。これが黄金期を築いたミランでのラストシーズンとなり、2011年5月、ピルロは契約満了での退団とユベントスとの3年契約を公表することになった。