頑固な若者から日本代表のリーダーへ 旧知の記者が見た“キャプテン”長谷部の原点
自己を厳しく律し言動に説得力を与える
長谷部が2008年初頭に海外への移籍を決めたのは、2006年に浦和が初のJリーグ制覇を成し遂げ、翌2007年にAFCチャンピオンズリーグを制してアジアの頂点に立ったことで、クラブへの恩義を果たしたからだ。2007年夏にドイツへ旅立つプランもあったなかで、あえて移籍時期を半年ずらしたのには理由がある。この時期の彼にはすでに唯我独尊的な振る舞いは見られず、チームのために自らがどう処するべきかを常に考えていたように思う。
ドイツに渡ってからは言語の習得に努めたが、それも所属チームの指揮官、チームメイトとの関係性が重要だと認識していたからだ。
最初に所属したヴォルフスブルクで指揮を執っていたフェリックス・マガトは厳格な指揮官で、日本語の通訳を練習やミーティングに参加させることを許さず、長谷部はチーム内での生き残りを懸けてドイツ語の勉強に励んだ。彼がドイツへ渡った当初はスマートフォンが普及しておらず、常に電子辞書を携えて街中でも積極的に現地の人とコミュニケーションを取っていた姿が印象的だった。
その後、アルミン・フェー、スティーブ・マクラーレン、トーマス・シャーフら、様々な監督の下でプレーした長谷部は右サイドバック、右サイドMF、ボランチと多岐に渡る役割を与えられるなかで高い評価を受け続け、数多の指揮官の下で常時試合出場を果たしてきた。そして2017-18シーズンの今季は、ニコ・コバチ監督から3バックのリベロに据えられ、クラブに30年ぶりのDFBポカール(ドイツカップ)タイトルをもたらしたのは記憶に新しい。
若い頃の長谷部は決してキャプテンタイプではなかった。勝利への執念は滾らせていたが、仲間を引っ張るよりも叱責することの方が多く、周囲が彼に呼応しなかった。しかし、南アフリカで代表の主将を拝命してからは厳しく自己を律することで周囲を納得させ、その振る舞いで自らの言動に説得力を与えていった。今回、長谷部の代表引退の報を受けて取材に応じた吉田麻也(サウサンプトン)が涙を流して語った言葉が、長谷部のキャプテン像を赤裸々に表しているように思う。
「彼ほどチームのことを考えて行動できる人間はいないんじゃないかと。口うるさくて、自分のルールがたくさんあって、世間では真面目なキャラで通ってますけど、実際は本当に頑固で、一緒に仕事していて『面倒くさいな』と思うこともたくさんありましたけども、それでも……、長く一緒にやってきたんで……。彼から学ぶことはたくさんあった。彼だけじゃなくて、一緒に長くやってきた選手たちと、僕より歳が上の選手たちとやれるのはおそらくこの大会が最後だと思っていたので、最後にみんなで何かを成し遂げたかったなと本当に思います。どうあがいても、長谷部誠のようなキャプテンにはなれない」
島崎英純
1970年生まれ。2001年7月から06年7月までサッカー専門誌『週刊サッカーダイジェスト』編集部に勤務し、5年間、浦和レッズ担当を務めた。06年8月よりフリーライターとして活動を開始。著書に『浦和再生』(講談社)。また、浦和OBの福田正博氏とともにウェブマガジン『浦研プラス』(http://www.targma.jp/urakenplus/)を配信しており、浦和レッズ関連の情報や動画、選手コラムなどを日々更新している。2018年3月より、ドイツに拠点を移してヨーロッパ・サッカーシーンの取材を中心に活動。